ドナルド・トゥスク
[Wikipedia|▼Menu]
1989年に行われた第二次世界大戦後初の普通選挙では独立自主管理労働組合「連帯」による選挙会派・民主行動のための市民運動(ROAD)から国政に進出する。1990年にROADが自由主義に対する理念の違いから内部分裂すると、経済と個人の自由の追求、一方でこれら自由化における急進主義や熱狂の排除、欧州統合への積極参加という、いわゆる中道右派の理念を志す仲間と共に自由民主会議(英語版)(KLD)を結成。1991年総選挙ではセイム(下院)で37議席を獲得した。1994年には、より社会的にリベラルな中道政党の民主連合(UD)と合併して「穏健な自由主義」を目指す自由連合(UW)を結成。1997年にはセナト(上院)議員となった。

2001年になると自由主義をめぐる党内の政策理念の対立から、トゥスクなどの旧自民会議(KLD)系だけでなく旧民主連合(UD)系も含めた同志がUWを離脱し、「連帯」選挙行動から離脱した中道右派の人々と共に新党・市民プラットフォーム(PO)を結成。その際にトゥスクは中心的な役割を果たし、同年の下院選挙では同党が与党・民主左翼連合(SLD)に対し野党第一党となる。2003年に党首に就任。2005年総選挙でPOは政権獲得を目指したものの、大幅に議席を伸ばした右派政党・法と正義(PiS)に及ばず、野党第一党にとどまった。

2007年10月に行われた下院の任期前解散総選挙で、市民プラットフォームは上下両院で首相ヤロスワフ・カチンスキ率いる与党・法と正義に勝利を収め最大議席を獲得した。中道政党農民党(PSL)と連立を組んで連立与党を構成することになり、トゥスクは同年11月16日首相に就任した。

トゥスクは一部から次期大統領の有力候補とされていたが、自らが以前から主導している社会・経済・行政・司法・立法等の構造改革を続行するため、首相職に留まる決断をした。彼が率いる市民プラットフォームは3月下旬に予備選挙を行い、セイム(下院)副議長のブロニスワフ・コモロフスキが外務大臣のラドスワフ・シコルスキ(英語版)を抑え同党の大統領選立候補者に決定した。7月の決選投票の結果、コモロフスキが同年4月10日にポーランド空軍Tu-154墜落事故で死亡したレフの兄で法と正義の大統領候補であるヤロスワフを破って当選を果たした。

議会の任期満了に伴い2011年10月に実施された総選挙の結果、与党・市民プラットフォームは第1党を維持し、連立パートナーである農民党と併せてセイムの過半数を制した[5]。勝利の背景には好調な経済と安定した社会状況の下で政権維持を望む国民の支持があり、民主化後のポーランドにおいて、初めて与党が議会選挙で勝利して政権を継続することとなった。そして11月19日に議会で内閣の信任決議が可決され、第2次トゥスク内閣が正式発足した[6]欧州理事会議長EU大統領)に就任するため2014年9月9日に首相を辞任すると表明し[7]、9月22日に後任が選出されたことで正式に退任した[8]
EU大統領

トゥスクは2014年8月30日に行われた欧州理事会の非公式会合で次期欧州理事会議長(EU大統領)に内定し、ヨーロッパの代表として国際政治の舞台に登場することとなった[9][10][11]。トゥスクのEU大統領選出には、トゥスクと親しいドイツアンゲラ・メルケル首相の強力な支持を受けた[12]

この会合の直後に行われた記者会見で英語力について問われたトゥスクは、英語で「みなさん心配しないで下さい。私は12月1日(の正式就任)に間に合うよう自分の英語力に磨きをかけます!」(Don't worry, I will POLISH my English and be 100 percent ready on December 1!)という洒落で答えた[12](Polish「ポーランドの?/ポーランド語」とpolish「磨きをかける」を掛けたもの)。しかし、トゥスク自身は流暢に英語を話すとされる[13]

9月9日にはコモロフスキ大統領に辞表を提出し[14]、12月1日に欧州理事会議長に就任した[15]。2017年3月9日に行われた議長選挙では、トゥスクの出身国ポーランドの与党・法と正義の総裁ヤロスワフ・カチンスキがトゥスクのかつての政敵だったこともあり、反対票を投じて再選阻止に動いたが他国に同調の動きはなく、27対1で再選された[16]

EU大統領在任中にはイギリスの欧州連合離脱(ブレグジット)に対応したが、離脱協定がイギリス議会で承認を得られず延長を繰り返すなど悩まされることとなった。2019年2月6日には記者会見で、ブレグジットを安全に実施する方法を何も計画せずに推進した人たちには地獄に特等席が用意されていると発言し物議を醸した[17]。しかし結局は当初の離脱期限の3月29日に離脱協定の可決が間に合う見通しは立たず、合意なき離脱の危険性が高まった。イギリスのテリーザ・メイ首相からの離脱期限延長の申し出に対しEUは延長を承認し、3月22日にトゥスクは記者会見で先述の自身の発言を踏まえ、地獄はまだガラガラだと発言した[18]。イギリス議会が離脱協定を可決できなければ4月12日が離脱期限と決められたが結局は10月31日まで延長され、トゥスクは再延長が決まった直後の4月11日未明の記者会見で今度は時間を無駄にしないでほしいと苦言を呈した[19]。同年11月13日には欧州大学院大学での講演でイギリスはEU離脱後に国力が強化されるどころか二流国に転落するだろうとの見方を示すなど、ブレグジットには終始否定的であり、イギリスに翻意するよう促し続けた[20]。結局はトゥスクの任期中にイギリス議会が離脱協定を可決することはなく、退任の約2カ月後にイギリスは離脱を果たした[21]。欧州は団結してこそ中国に立ち向かえるというのがトゥスクの持論であった[20]
ポーランド国政への復帰

EU大統領を務めた後は半ば引退状態とも言われたが、EU大統領在任中に祖国ポーランドの民主主義が政敵によって後退させられたいう危機感を抱き、ポーランド国政への復帰を決断する[1]。2023年10月15日の総選挙では自由を取り戻すと訴えた[1]。選挙の結果、与党連合・法と正義(PiS)が第1勢力を維持するも事前の予測よりも勢いがなく194議席にとどまって過半数を割りこみ、トゥスク率いる市民プラットフォームを中心とする市民連合が157議席を獲得し、これに第三の道(英語版)の65議席、左翼(英語版)の26議席で過半数に到達した[22]。PiSが議会内で過半数を確保できない以上は同党のマテウシュ・モラヴィエツキ首相は政権の座から降りるほかなかったが、11月6日にアンジェイ・ドゥダ大統領がモラヴィエツキに組閣を要請。トゥスクは政権樹立を無駄に遅らせる行為であると非難し、自身の首相就任に強い意欲を表明した[23]。ところが11月27日に議会で過半数の支持を確保しないままドゥダ大統領がモラヴィエツキを首相に再任し新閣僚も就任宣誓を行い、新政権が発足したため野党からは茶番であるとして批判を受ける事態となった。もっとも、このような事態のため新政権に課せられた、2週間以内にセイムで信任を得られる可能性は当初からなく[24]、内閣信任決議案は12月11日に賛成190、反対266票で否決され、モラヴィエツキは首相を失職[25]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef