ドナルド・トゥスク
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学生時代から独立自主管理労働組合「連帯」運動に参加、若手のホープとして頭角をあらわし、1981年にはフリードリッヒ・ハイエク経済政策を紹介するパンフレットを製作して全国に配布した[2]

1989年民主化後に本格的に政界入りした。それ以前はポーランド民主化運動に明け暮れていたわけではなく、大学を出た後は発電所や造船所などで産業用のペンキ職人として働き[3]、のちにペンキ屋の親方として当時許可されていた程度の小規模の企業を自ら開業している。そこでは親方社長として真夏の炎天が続くなか、納期に間に合わせようと現場で毎日16時間も働くような猛烈な経験を通じて、ビジネスの極意と自ら汗を流して働くことの大切さを学んだという[4]。また協同組合の経営にも参加し、自由経済主義に共鳴していった[1]
ポーランド国政入り

1989年に行われた第二次世界大戦後初の普通選挙では独立自主管理労働組合「連帯」による選挙会派・民主行動のための市民運動(ROAD)から国政に進出する。1990年にROADが自由主義に対する理念の違いから内部分裂すると、経済と個人の自由の追求、一方でこれら自由化における急進主義や熱狂の排除、欧州統合への積極参加という、いわゆる中道右派の理念を志す仲間と共に自由民主会議(英語版)(KLD)を結成。1991年総選挙ではセイム(下院)で37議席を獲得した。1994年には、より社会的にリベラルな中道政党の民主連合(UD)と合併して「穏健な自由主義」を目指す自由連合(UW)を結成。1997年にはセナト(上院)議員となった。

2001年になると自由主義をめぐる党内の政策理念の対立から、トゥスクなどの旧自民会議(KLD)系だけでなく旧民主連合(UD)系も含めた同志がUWを離脱し、「連帯」選挙行動から離脱した中道右派の人々と共に新党・市民プラットフォーム(PO)を結成。その際にトゥスクは中心的な役割を果たし、同年の下院選挙では同党が与党・民主左翼連合(SLD)に対し野党第一党となる。2003年に党首に就任。2005年総選挙でPOは政権獲得を目指したものの、大幅に議席を伸ばした右派政党・法と正義(PiS)に及ばず、野党第一党にとどまった。

2007年10月に行われた下院の任期前解散総選挙で、市民プラットフォームは上下両院で首相ヤロスワフ・カチンスキ率いる与党・法と正義に勝利を収め最大議席を獲得した。中道政党農民党(PSL)と連立を組んで連立与党を構成することになり、トゥスクは同年11月16日首相に就任した。

トゥスクは一部から次期大統領の有力候補とされていたが、自らが以前から主導している社会・経済・行政・司法・立法等の構造改革を続行するため、首相職に留まる決断をした。彼が率いる市民プラットフォームは3月下旬に予備選挙を行い、セイム(下院)副議長のブロニスワフ・コモロフスキが外務大臣のラドスワフ・シコルスキ(英語版)を抑え同党の大統領選立候補者に決定した。7月の決選投票の結果、コモロフスキが同年4月10日にポーランド空軍Tu-154墜落事故で死亡したレフの兄で法と正義の大統領候補であるヤロスワフを破って当選を果たした。

議会の任期満了に伴い2011年10月に実施された総選挙の結果、与党・市民プラットフォームは第1党を維持し、連立パートナーである農民党と併せてセイムの過半数を制した[5]。勝利の背景には好調な経済と安定した社会状況の下で政権維持を望む国民の支持があり、民主化後のポーランドにおいて、初めて与党が議会選挙で勝利して政権を継続することとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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