ドナルド・デイヴィッドソン
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デイヴィッドソンは、1917年3月6日マサチューセッツ州スプリングフィールドで、クラレンス(デイヴィ)・ハーバート・デイヴィッドソンとグレイス・コーデリア・アンソニーの間に生まれた。彼の家族はデイヴィッドソンが生まれてすぐ後にフィリピンへ移り、デイヴィッドソンが4歳になるまでそこで暮らした。その後、アマーストフィラデルフィアでの生活の後、デイヴィッドソンが9歳か10歳の時、家族はスタテンアイランドに落ち着く。この時から、デイヴィッドソンは公立校に通うようになり、最初の学年をかなり年下の同級生たちと共にすごした。それから4年生になると、デイヴィッドソンはスタテンアイランド・アカデミーに顔を出すようになった。高校では、彼はプラトンパルメニデスカント純粋理性批判、それにニーチェの著作を読もうとした。

ハーバード大学に進んだデイヴィッドソンは、英文学比較文学シェイクスピア聖書をセオドア・スペンサーに、ジョイスをハリー・レビンに学んだ)から古典文学と哲学に専攻を変えた。

デイヴィッドソンは、すばらしいピアニストであり、いつも音楽に深い関心を寄せていた。後にスタンフォード大学では「音楽の哲学」を教えるほどだった。ハーバードでは、デイヴィッドソンは後に著名な指揮者で作曲家であるレナード・バーンスタインと同級であり、バーンスタインとデイヴィッドソンは連弾でピアノを弾く仲だった。バーンスタインは、デイヴィッドソンが上演したアリストパネスギリシア喜劇「鳥」のために作曲してくれた。このときの曲のいくつかは、後にバーンスタインのバレエ「ファンシー・フリー」(1944年) に使われることになる。

卒業後、デイヴィッドソンはカリフォルニアへ行き、そこでエドワード・G・ロビンソンが出演した探偵もののラジオドラマ「ビッグ・タウン」の台本を書いた。彼はスカラーシップを受けてハーバードに戻り、古典哲学を研究し、哲学を教えるかたわらハーバード・ビジネス・スクールの集中的なトレーニングを経験した。ハーバード・ビジネス・スクールを卒業する機会を得る前に、デイヴィッドソンはかつて志願したことのあるアメリカ海軍に招集された。デイヴィッドソンは敵機の見分け方についてパイロットを訓練し、シシリー島、サレルノ湾、エンツィオの侵攻作戦に参加した。海軍で3年半を過ごした後、デイヴィッドソンは小説を書こうとしたが失敗した。その後、哲学研究に戻り、1949年には博士号を取った。彼の博士論文は、彼自身は退屈なものと考えたが、プラトンの「ピレボス」についてのものだった。

クワインの影響の下で、デイヴィッドソンは次第に、分析哲学の特徴である、より厳密な方法とより明確化された問題に向かうようになっていった。デイヴィッドソンはクワインという指導者に対しての信頼をしばしば表明している。

1950年代に、デイヴィッドソンはパトリック・サップスとともに決定理論に対する経験的アプローチを発展させる研究を行った。二人の結論は、他の者から独立した個人の信念や選好を他から切り離すことはできないというもので、つまり人がしたかったものややろうとしたことや価値付けるものという点で個人の行動を分析する方法が常に複数存在するということである。この結論は、クワインの翻訳の不確定性のテーゼとも一致する。そしてデイヴィッドソンが心の哲学について行うその後の研究に重要な意味を持つものである。

彼の最も有名な仕事(下記を参照)は、1960年代以来、行為の哲学から心の哲学や言語哲学、それに時には気まぐれに美学や哲学的心理学、哲学史にいたるまで、そうした分野を連続的に移動しながら続けざまに発表される一連の諸論文の形で出版された。

デイヴィッドソンは方々を旅し、広範な範囲に関心を抱き、それらを追求するエネルギーも持ち合わせていた。ピアノを弾く以外にも、彼は飛行士のライセンスをもち、ラジオを組み立て、登山やサーフィンを好んだ。彼は3度結婚した(最後は哲学者であるマーシャ・キャベルと結婚した)。トマス・ネーゲルは、手短に彼を賞賛して「強烈にエロティックだ」と言っている。

アメリカ哲学協会の東部地区、西部地区双方の会長を務め、クイーンズカレッジ(現在のCUNYの一部)、スタンフォード、プリンストン、ロックフェラー、ハーバード, オックスフォード、および シカゴ大学で様々な専門職を歴任した。1981年から没するまでカリフォルニア大学バークレー校で哲学のウィリス S.&マリオン・スラッサー冠教授を務めた。1995年にジャン・ニコ賞を受賞した。
業績
行為、理由、原因

デイヴィドソンのもっとも有名な論文は、1963年に書かれた「行為、理由、原因」である。当時の学界では、ウィトゲンシュタインに由来する「行為者が行為する理由は、その行為の原因ではない」 という考え(行為の反因果説)が広く受け入れられていた。


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