ドナルド・キーン
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^ アメリカ陸軍では情報部[18]第442連隊戦闘団などで日系二世に活躍の機会が与えられたが、アメリカ海軍は日系人の入隊を認めていなかったため、日系人以外の通訳を必要としていた[19]
^ 戦時法規により講師を務める日系人が西海岸での滞在が許されなくなったため、途中で内陸にあるコロラド大学に移転している[20]
^ 駐日米国海軍士官向けに長沼が作成した教科書[22][23]
^ 中には日記を発見するであろうアメリカ人に宛てて、戦後家族に届けてほしい旨の英文が住所とともに書かれていたものもあり、解読を通して兵士らに同情したキーンはこれを密かに保管していたが、後で没収されてしまった[26][27][28]
^ このときの尋問は同僚であったオーテス・ケーリが主に行った[30]
^ 後に、「あの複雑怪奇なカラクリと兵士の死が理解できた」として小田実の『玉砕』を翻訳している[31]
^ 「捕虜になると女性は強姦され、子どもは殺される」と書かれた日本軍の文書を沖縄で見たキーンは、これがその一因であったと考え、「だから、死ななくていい人たちが命を絶った。日本軍がしたことは許せない」と語っている[36]
^ 軍隊での勤務を通してこれまでに知り合った捕虜などの日本人が無事生きていることを知らせるため、その家族に会うことを試みた後、翻訳局での仲間であった日系二世らとともに日光東照宮などを訪問した[39]
^ 当時アメリカで最も著名な日本学者であったセルゲイ・エリセーエフの講義も受けたが、その内容も彼の姿勢もキーンを失望させるものであり、後年自分が教鞭を執ったときの反面教師としている[41]
^ 1952年には、「日本の文学」についての5回連続の講義を開くが、250人入る大教室に僅か10人しか集まらず挫折を覚えたキーンは日本文学研究を棄ててロシア語を学ぼうとするも習得できず、日本語が一番合っていることを再確認して日本文学研究を続行した[6][7]
^ 朝鮮人捕虜から習った経験を生かして朝鮮語の講師も務め、受講者には後にロンドン大学で朝鮮語の権威となるウィリアム・スキレンド(英語版)がいた[42]
^ この下宿はオーテス・ケーリがキーンに紹介した。現在は同志社大学今出川キャンパスに移築されている[47][48]
^ ケンブリッジ大学が留学の延長を認めなかったことから、コロンビア大学に再移籍している[50]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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