共和国の経済は一部は土地の開発によってもたらされたが、大部分は海洋交易によるものであった。巧みな外交術は交易を助け、ラグーサの商品は自由に海を行き交い都市には巨大な商船団が存在した。各地で居住地も発見されている。多くのスペインやポルトガルからのマラーノやユダヤ人をラグーサはひき付けた。1544年、ほとんどをポルトガルの難民で占めた船が着岸したとバルタサール・デ・ファリア (Balthasar de Faria) がジョアン王に報告している。隆盛を極めたラグーサ共和国だが、1667年に発生した壊滅的な地震の後、アドリア海交易の不振と相まって徐々に後退を始める。地震では5,000人を超える市民が死亡し、公共の建物のほとんどは破壊された [8]。1699年、共和国はクロアチア本土にある2つの小区画の領地をオスマン帝国に売り、前へ進めるベネツィアの軍とオスマン軍との戦いに巻き込まれるのを避けた。今日、これらの土地はボスニア・ヘルツェゴビナに属しボスニア・ヘルツェゴビナでは唯一、アドリア海に接する町であるネウムである。
1806年、周辺部をナポレオンの軍隊に包囲され、ロシア・モンテネグロ艦隊の3,000発の砲撃によってラグーサ共和国は1ヶ月の包囲に降伏した[9]。ナポレオンの最初の要求は自らの軍隊の自由な通行で、領土の占領や圧力ではなくフランスはラグーサの友人であるとした。しかしながらその後、フランスの軍は港を封鎖し共和国政府を強制し市内へ軍を進めた。1808年、オーギュスト・マルモンはラグーサ共和国を廃しナポレオンの初の国家となるイタリア王国に統合され、フランス支配下のイリュリア州となる。 1814年1月29日、オーストリア=ハンガリー帝国は町を占領しウィーン会議によって、ハプスブルク領ダルマチア王国の一部とされた。この時期の産業は限られており、いくらかの絹や皮革加工、酒造、油の生産などであった。週に3度、トルコのキャラバンが町のバザールにやって来た。ハプスブルク支配時の20世紀初期に観光開発が始まり、新たな港や1970年代まで存在したドゥブロヴニク市電が整備されている。フランツヨーゼフ1世やマクシミリアンの夏のヴィラが沖合いのロクルム島に築かれた。 第一次世界大戦後の1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が新たに後のユーゴスラビア王国となるスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の都市となる。都市の名称もラグーサから公式に現在のドゥブロヴニク変えられた。第二次世界大戦時にはナチスの傀儡国家であったクロアチア独立国の一部であった。イタリア陸軍が最初に占領しドイツ国防軍はその後、1943年9月8日に占領し始めている。1944年10月にチトー率いるパルチザンがドゥブロヴニクに入りその結果、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となる。パルチザンは市内に入ると直ぐに約78名の市民に対し裁判無しに死刑を宣告した。その中にはカトリックの聖職者も含まれていた[10]。 それまで観光客で賑わっていたドゥブロヴニクへの砲撃は1991年から1992年にかけて続いた。1991年はユーゴスラビアから相次いでクロアチアやスロベニアが独立を宣言した年で、クロアチア社会主義共和国は現在のクロアチア共和国へ名称が変わっている。1970年代の早い段階で、世界遺産に登録されている旧市街地は戦争による惨事から避けるため非武装化が行われたが1991年の独立宣言後、ユーゴスラビア人民軍に残っていたセルビア・モンテネグロによって町は攻撃されている。 当時モンテネグロの政権はセルビア人政府に忠誠を誓うモミル・ブラトヴィッチ (Momir Bulatovi?) が担っており、ドゥブロヴニクがクロアチアに残ることは歴史的にモンテネグロの一部である為に容認出来ないと宣言している[11]。この宣言にもかかわらず、ドゥブロヴニク市内で多数を占めるのはクロアチア人でモンテネグロ人の居住者は少数であり、セルビア人は人口の6%を占めるだけであった[11]。
オーストリア=ハンガリー帝国
1921年から1991年
ユーゴスラビア崩壊
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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