ドゥカート
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ハンガリー王国のドゥカートフェルディナント3世が描かれた100ハンガリードゥカート(1629年

ヴェネツィア共和国は極めて活発な貿易国であったが、西ヨーロッパにおいては彼らは主に貿易品を販売しており(つまり、貿易品を購入して硬貨を使う機会が少ない)、一般的にこの地域ではドゥカートよりもフローリンが多く用いられていた[17]。だが、ハンガリー国王カーロイ1世が金貨の鋳造を始めた際、模倣したものはヴェネツィアのドゥカートであった。彼の息子のラヨシュ1世は、ドゥカート風の聖ヨハネの立ち姿を、フローリン風の聖王ラースローの立ち姿に変更した他、後にフィレンツェのユリを自身の紋章に変更したが、金の純度は維持していた[18]。1400年代、純金で作られたフローリンをドゥカートと呼び、価値の低い模造品のフローリンをグルデンやゴールドグルデンと呼ぶ事で両者を区別していた[19]。1524年、神聖ローマ皇帝カール5世がヴェネツィア共和国のドゥカートを、グルデンよりも39%高い価値で帝国内の標準通貨とした際、彼はこの区別を認識していた[20]。彼の弟で後に後継者になるフェルディナント1世は、1526年にハンガリーの王位を継承した際、このシステムをハンガリーにも持ち込んだ。これ以降、ハンガリーの金貨の中でも純度の高いものはドゥカートと呼ばれるようになる[21]。こうした金貨は純度が高いためヨーロッパ中で受け入れられた。スコットランド大蔵卿(Lord High Treasurer of Scotland)は、国王さえ賭博にこうしたドゥカートを用いていたとの記録を残している[22]

ハンガリーはドゥカートの鋳造を、98.6%純度の金を3.5グラム使って続けた。ヴェネツィア・ドゥカートが一定のデザインを守り続けたのとは対照的に、ハンガリー・ドゥカートは裏面の紋章が情勢に応じてしばしば変更された。1470年マーチャーシュ1世は裏面の紋章を聖母マリアに置き換えた[23]。ハンガリー王国は1915年まで、即ちオーストリアの統治下でさえドゥカートの鋳造を続けた。これらは貿易用の硬貨として使用され、後年再鋳造されたものもある[24]
オランダ共和国のドゥカート

オランダの反乱(英語版)の結果、オランダ共和国は国内7州の通貨管理が可能となった。しかし、1583年アンジュー公フランソワの統治が破綻し、貨幣に名前を付けるべき憲法上の統治者が不在となった。彼らは、広く受け入れられている外国の硬貨を模倣する、というこの地域の伝統に立ち戻る事となる。このケースでは、もはや用いられなくなった硬貨を模倣する事で政治的な面倒を回避した。カトリック両王が発行した金貨は、ドゥカートを模倣したものであり、オリジナルと同様にドゥカートと呼ばれた[25]。彼らはハンガリー・ドゥカートを模倣した硬貨も発行したが、これ以降のオランダ共和国の貨幣はこの硬貨の強い影響を受けたものになる。オランダが世界規模の覇権的な貿易国家になるに応じて、これらのドゥカートの影響力も国際的になっていった[26]オランダ、1724年の金貨、ユトレヒト

オランダで鋳造されるハンガリー風のドゥカートは始めの内、模倣の元となったハンガリー・ドゥカートと同様に、表面に王冠戦斧を持った聖王ラースローの立ち姿が描かれていた(但し、銘は別人の名前で刻まれていた)。裏面のデザインはマーチャーシュ1世が変更する前のハンガリー・ドゥカートに倣い、鋳造した州の紋章が描かれていた[27]。表面のデザインは次第に、国内の7州を表す7本の矢と剣を持つ騎士の立ち姿へと変化していった。"CONCORDIA RES PAR CRES"という銘は、サッルスティウスの言葉"Concordia parvae res crescunt, discordia maximae dilabuntur(「小さきものも調和によって成長し、偉大なるものも不和によって滅ぶ」の意。)の一部。また、硬貨を発行した州の名前も刻まれている。裏面は、MO OR DI PROVIN FOEDER BELG AD LEG IMP(「地域の法に則したベルギーの連邦州の金貨」の意。)[28]ナポレオン時代には、バタヴィア共和国ルイ・ボナパルトがこうしたデザインのドゥカートの鋳造を続けた[29]
ドゥカートの普及4オーストリア・ドゥカート(公式再鋳造品)

1400年代、西ヨーロッパの国際的な貿易商たちは業務で用いる通貨として、フローリンよりもドゥカートを好むようになっていった。統治者が貨幣を改める際、殆どの場合ドゥカートがモデルとして利用された。マムルーク朝のアシュラフィ(英語版)、オスマン帝国のアルトゥン(altun)、カスティーリャ王国のドゥカート等がその例として挙げられる[30]

マクシミリアン1世の貨幣改革により、1511年オーストリアでのドゥカート金貨の鋳造が始まった[31]。この金貨は1857年法定通貨としての地位を失うが、オーストリアは第一次世界大戦の影響で1915年に終了するまでドゥカートを貿易鋳貨(英語版)として鋳造し続けた[32]。また、それ以降も「1915」の銘の入ったドゥカートの再鋳造を現在に至るまで続けている[33]。だが、スペインのアメリカ大陸植民地で豊富な銀資源が発見されると、スペインドル(英語版)が国際貿易で用いられる支配的な通貨としてドゥカートに取って代わった[34]

1913年頃、ドゥカート金貨の価値は「9シリング4ペンスと同等、または2ドルより若干多い。ドゥカート銀貨はこの半分の価値」であるとされた[35]。現代においても、いくつかの国の造幣局は投資用やコレクション用のドゥカートを鋳造・販売している。
ドゥカートの一覧1934年チェコスロヴァキアで発行された10ドゥカート金貨は、(平均的には)1.1063オンスの金を含んでおり、全体で34.9グラムだった。この硬貨は68枚しか鋳造されておらず、極めて珍しい[36]1645年エアフルトで鋳造された10ドゥカート硬貨には、スウェーデンクリスティーナ女王が描かれている[note 1]

オーストリア。オーストリア造幣局(英語版)は今も1ドゥカート、4ドゥカートの鋳造を続けている。

東ローマ帝国。東ローマはバシリコン(英語版)と呼ばれる、独自のヴェネツィアドゥカート銀貨を鋳造していた。

クロアチア

チェコスロバキア

チェコ共和国は今も金のレプリカを鋳造している(1、4、40、100ドゥカート)

デンマーク

ドイツ神聖ローマ帝国。多くの都市や、1871年以前の公国で鋳造されていた。

アウクスブルク

ハンブルク


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