ドイツ
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ドイツの武器輸出額は中国に次ぐ世界4位[40]。一方、2021年にロシア・ウクライナ危機を背景にウクライナがドイツに武器輸出を含めた軍事支援を求めると、ドイツ政府は「危機地域に殺傷武器を送って状況を悪化させるよりは、他の方式を選びたい」として軍用ヘルメットを送るにとどまり[41]、艦船の提供などを期待していたウクライナ側を失望させた[42]2022年ロシアのウクライナ侵攻が始まると、ドイツはアメリカと協調して対戦車ミサイル1000基の供与を決定した[43]。2023年には、主力戦車レオパルト2の供与と導入国による再輸出を許可した[44]
平和

ドイツは、近隣諸国との良好な関係、汚職の少なさ、情報の自由な流れ、良好なビジネス環境、高いレベルの人的資本、資源の公平な配分、十分に機能する政府、および他者の人権の受け入れによって決まる2022年の積極的平和指数で世界第9位を獲得した。特に、ドイツは「近隣諸国との良好な関係の構築」において世界一にランクされている[45][46]
日本との関係詳細は「日独関係」を参照

1603年 - 1870年江戸時代に来日したドイツ人の1人に、徳川綱吉とも会見した博物学者エンゲルベルト・ケンペルがいる。ケンペルが著した広汎な『日本誌』は詳細な紀行文にして博物誌であり、ゲーテも愛読したと伝えられる。日本に西洋医学を伝えたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもドイツ人であり、江戸幕府が崩壊したあとも日本人は盛んにドイツから医学を学んだ。

直接の外交関係は、1850年代にプロイセン王国の軍艦品川沖に来航したことに始まり、アメリカ合衆国のマシュー・カルブレイス・ペリーによる黒船来航のように武力で外交を開こうとした。このため、1911年まで(すなわち幕末から明治まで)の日独関係は不平等条約で結ばれていた。しかし、後述のように文化交流では重要な国となった。さらに歴史的経過を見ると、ドイツ帝国成立(1871年)と明治維新(1868年)がほぼ同じ時期に起こった点も大きい。

1871年 - 1945年在ドイツ日本公使館の印(明治時代初期)

2018年欧州委員会によるドイツ人が主要国及び欧州連合に対する見解に関する調査[47]
国・地域肯定否定どちらでもない肯定-否定
 アメリカ21%75%4-54
 ロシア21%72%7-51
 中国25%63%12-38
 イギリス49%43%86
 日本65%20%1545
 フランス79%15%664
 欧州連合82%15%367
 ドイツ87%12%175

1873年に岩倉使節団はベルリン[48]、ハンブルク、ミュンヘン[49] を歴訪しており、その当時の様子は『米欧回覧実記』にも詳しく記載されている。明治維新を経た1870年代から1880年代までの日本では、ドイツ帝国の文化や制度が熱心に学ばれ、近代化の過程に大きな影響を与えた。このため、日本の近代化は「ドイツ的近代化」であるとも言われている[要出典]。伊藤博文は、大日本帝国憲法の作成にあたってベルリン大学憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストウィーン大学シュタインに師事し、歴史法学を研究している。当時の東京帝国大学がヨーロッパから招聘した教員にはドイツ人が多く、明治9年(1876年)にエルヴィン・フォン・ベルツが来日したのをはじめ、哲学では夏目漱石もその教えを受けて「ケーベル博士」と親しまれたラファエル・フォン・ケーベル、化学ではゴットフリード・ワグネルなどがいる。工学においては、大久保利通の命を受けた井上省三が、ザガン市(現・ポーランド領ジャガン)のカール・ウルブリヒト工場で紡績の生産技術を学び、日本に伝えている。その知識は現代の日本の製造業の礎となった。軍事においても、大日本帝国陸軍普仏戦争後に軍制をフランス式からプロイセン式へと変え、その制度と理論による近代化に努め、日露戦争の勝利につながった。

日清戦争後、ドイツはロシア帝国やフランスとともに日本に対し三国干渉を行った。さらに第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟により連合国側に与し、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国など中央同盟国に対して開戦。ドイツの南太平洋の植民地や膠州湾租借地を攻略(青島の戦い)したほか、ドイツ巡洋艦エムデンの追撃戦、地中海へ第二特務艦隊を派遣しての対Uボート作戦にも参加した(「第一次世界大戦下の日本」も参照)。

第一次世界大戦敗戦後、ドイツ帝国は崩壊しヴァイマル共和制が成立し、ヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を課され、全植民地の喪失とともに国内での軍事産業が制限された。そのためドイツは、ソ連や中国との密貿易関係を構築した。特に中国はタングステンを産出したため、中独合作を行い、日中戦争支那事変)では?介石政権に最新の兵器と軍事顧問団を送り込み、日本軍を苦しめた。当時日本が高度に軍事的成長を果たすのに対して、ドイツは黄禍論も背景にあり、脅威を感じていた。その後、国際情勢の変動により、1936年には日独防共協定を締結。利害を共有する日独両国は親近感を深め、1940年には日独伊三国軍事同盟へと発展し、第二次世界大戦では枢軸国(同盟国)としてともに戦うこととなった。

1945年 - 現在技術・経済面での交流は活発で、日本にとってヨーロッパ最大の貿易相手国となっている。特にドイツの自動車は日本でも高い人気を誇り、日本の輸入車の販売数上位3つはメルセデス・ベンツBMWフォルクスワーゲンが占めている。文化や制度の面では第二次世界大戦前ほどの影響力を持たなくなったものの、クラシック音楽ではバッハベートーヴェンをはじめとするドイツ(およびオーストリア)の作曲家の楽曲が愛好されている。これは他国でも同様ではあるものの、日本はイギリスと並び特にその傾向が強いといわれる。ドイツ語教育は、戦前のような英語に準ずる位置は失われたものの、なお多くの大学にドイツ文学科が設置されるなど、欧州語では英語フランス語に次ぐ位置を占める。ドイツ映画の輸入は戦後しばらくはポルノ、西部劇B級作品に限定されていたものの、ニュージャーマンシネマブームを経て1980年代ごろから娯楽作品もコンスタントに紹介されるようになっている。

欧州連合が設立されてからは、欧州連合の中心国として交流してきた。

ドイツでは、1999年1月から2000年9月までは「ドイツにおける日本年」と定められて日本が総合的に紹介された。また、日本では2005年2006年に「日本におけるドイツ年」の諸企画が行われ、新しい形の日独交流が形成されている。2018年の欧州委員会の調査によると、ドイツでは65%の人が日本に対して好意的な見方をしている[50]


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