ドイツ
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司法機関については連邦憲法裁判所(Bundesverfassungsgericht)が違憲審査権を有する憲法に関する事項の最高裁判所として機能している[14][20][21]

Oberste Gerichtshofe des Bundesと呼ばれるドイツの最高裁判所制度は専門化がなされており、民事および刑事に関する裁判所は連邦通常裁判所、それ以外の事項に関しては連邦労働裁判所(ドイツ語版)、連邦社会裁判所(ドイツ語版)、連邦金融裁判所(ドイツ語版)、連邦行政裁判所(ドイツ語版)などがそれぞれ担当する[12]。また国際刑法典(英語版)(Volkerstrafgesetzbuch)は人道に対する罪ジェノサイドそして戦争犯罪について規定しており、いくつかの状況においてドイツの裁判所に対して普遍的管轄権(英語版)を与えている[22]刑法民法刑法典(Strafgesetzbuch)と民法典(Burgerliches Gesetzbuch)に成文化されている。ドイツの刑法制度は犯罪者の更生と一般大衆の保護を主眼としている[23]
国際関係詳細は「ドイツの国際関係(英語版)」を参照ドイツが外交使節を派遣している諸国の一覧図アンゲラ・メルケル首相は、2007年ハイリゲンダムG8サミットの議長を務めた

ドイツは190か国以上との外交関係を結び、229か所の在外公館を有している[24]

2011年時点、ドイツは欧州連合(EU)への最大の分担金拠出国であり(拠出額20%)[25]国連(UN)に対しては第3位の分担金拠出国である(拠出額8%)[26]。ドイツは北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、主要国首脳会議(G8)、G20世界銀行国際通貨基金(IMF)に加盟している。ドイツは欧州連合発足当初から主要な役割を果たしており[27]、また第二次世界大戦以降はフランスとの緊密な同盟関係を保っている。ドイツは欧州統合を政治および安全保障面で推進する努力を続けてきた[28][29][30]

ドイツの政府開発援助政策は外交政策における独立した分野となっている。政策は連邦経済協力開発省(ドイツ語版)(BMZ)が策定し、関係各機関が遂行する[31]。ドイツ政府は開発援助政策を国際社会における共同責任と位置づけている[32]。ドイツの開発援助支出額は米国、フランスに次ぐ世界第3位である[33][34]

冷戦の時代、鉄のカーテンにより分断されたドイツは東西緊張の象徴となり、欧州における政治的戦場となっていた。しかしながら、東方外交を行ったヴィリー・ブラント首相は1970年代における東西緊張のデタント成功の鍵となった[35]。1999年にゲアハルト・シュレーダー首相がNATOのコソボ派兵への参加を決めたことにより、ドイツ外交の新たな基礎が定められ、第二次世界大戦以後、初めてドイツ兵が戦場へ送られた[36]。ドイツと米国は緊密な政治的同盟関係にある[14]。1948年のマーシャル・プランと強い文化的な結びつきが両国の絆を強めたが、シュレーダー首相のイラク戦争に対する強い反対意見は大西洋主義の終焉を示唆し、独米関係を冷却化させた[37][38]。両国は経済的に相互依存関係にあり、ドイツの対米輸出は8.8%、輸入は6.6%である[39]。2019年時点、中華人民共和国は、アジアにおける一番の貿易相手国である。

ドイツの武器輸出額は中国に次ぐ世界4位[40]。一方、2021年にロシア・ウクライナ危機を背景にウクライナがドイツに武器輸出を含めた軍事支援を求めると、ドイツ政府は「危機地域に殺傷武器を送って状況を悪化させるよりは、他の方式を選びたい」として軍用ヘルメットを送るにとどまり[41]、艦船の提供などを期待していたウクライナ側を失望させた[42]2022年ロシアのウクライナ侵攻が始まると、ドイツはアメリカと協調して対戦車ミサイル1000基の供与を決定した[43]。2023年には、主力戦車レオパルト2の供与と導入国による再輸出を許可した[44]
平和

ドイツは、近隣諸国との良好な関係、汚職の少なさ、情報の自由な流れ、良好なビジネス環境、高いレベルの人的資本、資源の公平な配分、十分に機能する政府、および他者の人権の受け入れによって決まる2022年の積極的平和指数で世界第9位を獲得した。特に、ドイツは「近隣諸国との良好な関係の構築」において世界一にランクされている[45][46]
日本との関係詳細は「日独関係」を参照

1603年 - 1870年江戸時代に来日したドイツ人の1人に、徳川綱吉とも会見した博物学者エンゲルベルト・ケンペルがいる。ケンペルが著した広汎な『日本誌』は詳細な紀行文にして博物誌であり、ゲーテも愛読したと伝えられる。日本に西洋医学を伝えたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもドイツ人であり、江戸幕府が崩壊したあとも日本人は盛んにドイツから医学を学んだ。

直接の外交関係は、1850年代にプロイセン王国の軍艦品川沖に来航したことに始まり、アメリカ合衆国のマシュー・カルブレイス・ペリーによる黒船来航のように武力で外交を開こうとした。このため、1911年まで(すなわち幕末から明治まで)の日独関係は不平等条約で結ばれていた。しかし、後述のように文化交流では重要な国となった。さらに歴史的経過を見ると、ドイツ帝国成立(1871年)と明治維新(1868年)がほぼ同じ時期に起こった点も大きい。

1871年 - 1945年在ドイツ日本公使館の印(明治時代初期)

2018年欧州委員会によるドイツ人が主要国及び欧州連合に対する見解に関する調査[47]
国・地域肯定否定どちらでもない肯定-否定
 アメリカ21%75%4-54
 ロシア21%72%7-51
 中国25%63%12-38
 イギリス49%43%86
 日本65%20%1545
 フランス79%15%664
 欧州連合82%15%367
 ドイツ87%12%175

1873年に岩倉使節団はベルリン[48]、ハンブルク、ミュンヘン[49] を歴訪しており、その当時の様子は『米欧回覧実記』にも詳しく記載されている。明治維新を経た1870年代から1880年代までの日本では、ドイツ帝国の文化や制度が熱心に学ばれ、近代化の過程に大きな影響を与えた。このため、日本の近代化は「ドイツ的近代化」であるとも言われている[要出典]。伊藤博文は、大日本帝国憲法の作成にあたってベルリン大学憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストウィーン大学シュタインに師事し、歴史法学を研究している。


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