ドイツ
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紀元前1000年ごろには、ケルト系民族によってドナウ川流域にハルシュタット文明と呼ばれる鉄器文明が栄えた。

紀元前58年から51年までのガイウス・ユリウス・カエサルガリア遠征などを経て、ゲルマン人は傭兵や農民としてローマ帝国に溶け込んでいった。しかし紀元後9年にトイトブルク森の戦いが起こり、ゲルマン人が勝利してライン川右岸を守った。この流域南部において83年にドミティアヌス帝がリメス・ゲルマニクスの建設を打ち出し、マイン川からドナウ川へとつながる長城が建設された。これによってライン川中・上流域ではリメスが前進した。これは2000年にわたるドイツ史の将来を規定する伏線となった。すなわち、ローマ帝国内にあるドイツ南部と、外にあるドイツ北部である。ローマ帝国の解体が進むと、375年には西ゴート族黒海沿岸から地中海に沿って、コロナートゥス化の進んだ西部へ移動した。

476年、西ローマ帝国が滅亡した。代わって西ヨーロッパを支配したフランク王国では各地に分王国が興り、その一つであるアウストラシアが北方でライン川両岸を占めた。843年、ヴェルダン条約によってフランク王国が三分割された。そのうちの一つである東フランク王国が、のちのドイツの原型となった。東フランク王国の国王オットー1世ザクセン朝)は962年アウグストゥス(古代ローマ皇帝の称号)を得て、いわゆる神聖ローマ帝国と呼ばれる連合体を形成した。
神聖ローマ帝国

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のとき、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国(Heiliges Romisches Reich Deutscher Nation)」と国名を称した。キリスト教宗教改革においては、ドイツの諸侯が新旧両教(カトリック教会プロテスタント)に分かれて互いに争った。その最大の惨劇である三十年戦争ではドイツのほとんど全土が徹底的に破壊され、1600万人いたドイツの人口が戦火によって600万人に減少したといわれる。

帝国自由都市の自治権が奪われ、ドイツは領邦主権体制となった。1667年プーフェンドルフが著した書『ドイツ帝国憲法について(Uber die Verfassung des deutschen Reiches)』において初めて、ドイツ国という呼称が確認できる。
プロイセン王国の台頭とドイツ帝国の興亡

シュヴァーベンにあるホーエンツォレルン城一帯から台頭したプロイセン領邦君主ホーエンツォレルン家は、17世紀半ばからオランダとともに勢力を拡大し、1701年にはプロイセン王国を形成した。

フランス革命の動乱は全ヨーロッパに波及し、フランス革命戦争で反撃を主導したナポレオン・ボナパルトによる侵略をドイツも免れなかった。対仏大同盟がナポレオンを破り、ドイツは帝国代表者会議主要決議の枠内で国家統一を志向するようになった。ホーエンツォレルン家は、オーストリアを拠点とするハプスブルク家ハプスブルク帝国)とドイツ統一の役割を争い、北ドイツ連邦を作り普墺戦争普仏戦争に勝利したプロイセン国王ヴィルヘルム1世は、ドイツ系オーストリアを除くドイツ帝国を創建し、ベルリンを首都とした。

国力が伸長したドイツ帝国はヴィルヘルム2世の治世下、英仏に遅ればせながらヨーロッパ以外での植民地や勢力圏の獲得に乗り出し、アフリカ分割に参加したほか、遠く太平洋でもドイツ領ニューギニア膠州湾租借地を支配し、オスマン帝国領内にも進出した(「3B政策」「東方問題」参照)。ドイツ帝国海軍も大幅に増強して、大洋艦隊を建設した。これらはイギリス、フランス、ロシア帝国の英仏露三国協商との対立を招いて第一次世界大戦の原因となり、同盟関係になっていたオーストリアの皇太子が暗殺されたサラエボ事件(1914年)を契機に英仏露などとの戦争に突入。激しい消耗戦を展開し、アメリカ合衆国も敵に回したことで1918年には戦力の限界を迎えて敗れ、国内ではドイツ革命の勃発によってヴィルヘルム2世がオランダへ亡命して帝政は終わり、領土の大幅な喪失と巨額の賠償を課されるヴェルサイユ条約への調印を余儀なくされた。
ヴァイマル共和政の混乱とナチス・ドイツ

ドイツは共和国として再出発した(ヴァイマル共和政)。これは連邦制が小党を乱立させて政局を不安定にした。ヴェルサイユ条約がドイツに課した賠償の負担は経済や政治に悪影響を与えた。1921年には1ドル=4.2マルクだったものが、1923年夏には1ドル=110万マルクという下落でハイパーインフレに陥り、レンテンマルク発行による通貨改革が行われた[6]。1920年代中ごろから相対的な安定期を迎え、ロカルノ条約(1925年)と国際連盟加盟(1926年)により国際社会にも復帰しつつあった。第一次世界大戦後期に起きたロシア革命で崩壊したロシア帝国に代わり成立したソビエト連邦(ソ連)とは、ラパッロ条約 (1922年)ベルリン条約 (1926年)で外交および秘密裏の軍事協力関係を構築した。

1930年代初頭、世界恐慌がドイツにも波及し、経済破綻を背景に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が台頭した。党首アドルフ・ヒトラーの指導下で、極右的民族主義、差別的な人種政策、さらに拡張的な領土政策を唱えた。1933年にヒトラーが首相に任命されると、ナチ党は国内の政敵を次々に制圧し、ナチ党一党独裁体制を築き上げた(ナチス・ドイツ)。

ヒトラーは1935年にヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄するドイツ再軍備宣言を発し、ヴァイマル共和国軍ドイツ国防軍に改編された。翌1936年には、非武装地帯と定められていたライン川西岸へ軍を配置(ラインラント進駐)。ソ連を仮想敵とする日独防共協定を締結し、のちに日独伊三国同盟、さらには第二次世界大戦における枢軸国に発展した。1938年にはオーストリアを併合し(アンシュルス)、チェコスロバキア解体も進めた。次第に英仏との緊張関係が高まった。ポーランド回廊を寸断すべく、ドイツは1939年9月にポーランドへ侵攻した。


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