ドイツ革命
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

政府は社会民主党員グスタフ・ノスケを派遣し、蜂起したレーテ水兵らの待遇改善などの要求と交渉して、またノスケを「総督」としたことで、平常化した[14][21]。蜂起の背景として、ドイツ海軍の将校が貴族・教養市民層出身者で占められているのに対して一般兵員は労働者で占められていたため、社会階層間の政治的対立が反映しやすかったことが指摘されている[14]

キールの乱は鎮静化したが、こうしてドイツ革命が開始された[19]。この後キールから散った水兵や労働者によって同様の蜂起はたちまち広まり、5日にはリューベック、ブルンスビュッテルコーク(英語版)、6日にはハンブルクブレーメンヴィルヘルムスハーフェン、7日にはハノーファーオルデンブルクケルン、8日には西部ドイツすべての都市がレーテの支配下となり、各地で将校が逮捕されて武装解除され、各地の軍当局は兵士評議会・労働者評議会の主権を無抵抗で承認した[21]

11月7日から始まったバイエルン革命(ミュンヘン革命とも)ではバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、王制は打倒され、レーテが権力を掌握した[22]。このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、11月8日までにドイツ北部へ、11月10日までにはほとんどすべての主要都市に波及した。総じてレーテ運動と呼ばれ、ロシア革命時のソビエト(評議会)を模して組織された労兵レーテであるが、ボリシェビキのような前衛党派が革命を指導したわけではなく、多くの労兵レーテの実権は社会民主党が掌握した。
共和国宣言共和政を宣言するシャイデマン

11月9日、首都ベルリンゼネストが起こった[22]。ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民のデモで埋め尽くされた。これに対してマックス大公子は皇帝の退位を宣言し、政府を社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに委ねた[23]。しかしベルリン各地では複数のレーテが結成され、事態は一向におさまる気配をみせなかった。この時、カール・リープクネヒトが「社会主義共和国」の宣言をしようとしていることが伝えられると、エーベルトとともにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマンは、議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言した(ドイツ共和国宣言)。

社会民主党にとってレーテ(評議会)とはボルシェビズムのソビエトであったのでこれを否定したため、独立社会民主党やスパルタクス団などの革命派との抗争となっていく[23]。しかし、ベルリンの兵舎や工場で相次いでレーテが結成されはじめたため、政権の維持を目指したエーベルトは独立社会民主党との連立政府「人民委員政府」の結成に踏み切った[23]11月10日、社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府「人民委員評議会(ドイツ語版)」が樹立された。その日の内にヴィルヘルム2世オランダに亡命した[22]。一方、ベルリンの労兵レーテは人民委員評議会を承認したものの、独立社会民主党の左派である革命的オプロイテが半数を占める大ベルリン労兵レーテ執行評議会(ドイツ語版)を選出し、ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言し、二重権力状態が生まれた[23]

11月10日夜、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息を図るエーベルトのもとに、グレーナー参謀次長から電話があり秘密会談がもたれた。その結果として、エーベルトらは革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供すること、また軍は、軍の維持と将校の権威の回復など旧来の将校組織を温存するという協定が結ばれ(エーベルト・グレーナー協定(ドイツ語版))、人民委員評議会政府とドイツ軍の相互依存関係が始まった[24]。エーベルトはまた旧来の官僚組織を温存し、社会民主党員を派遣することで行政機構を維持しようとした[24]。一方、海軍は水兵の反乱で将校の権威が失墜したまま混乱が続き、維持は認められたが革命を制圧する能力はなかった[24]。しかし首都の治安を守るためにクックスハーフェンから呼び寄せた水兵とベルリンの水兵による「人民海兵団(ドイツ語版)」が結成された。しかし海兵団には次第に革命的オプロイテが浸透し、左傾化していくことになる。

11月11日、ドイツ代表のマティアス・エルツベルガー、グレーナーらが連合国との休戦条約に調印し、第一次世界大戦は公式に終結した[22]
模索期

11月15日には、先の政治協定と似た形で、労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。(シュティンネス・レギーン協定(ドイツ語版))労働組合や労働運動の急進化を防ぐために、団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容としていた。

12月16日、全国労兵レーテ大会では、急進派が、ドイツ帝国軍の解体と「国民軍」の創設を要求したが、エーベルトはこれを無視して、多数派を占める社会民主党員の賛成により翌1919年1月19日の国民議会選挙を決定した[22]。これに反発した独立社会民主党は政府から離脱し、同党左派のスパルタクス団は1918年12月末共産党を結成し、翌1919年1月の選挙ボイコットを決定した[22]

12月23日ベルリン王宮を占拠していた人民海兵団を武装解除しようとエーベルトが派遣した部隊との間に戦闘が起きたが、結局は撃退された。これに抗議して独立社会民主党は政府から離脱した(人民海兵団事件(ドイツ語版))。新政府にはノスケが入閣し、軍事問題を扱うこととなる。

12月30日ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を中心にドイツ共産党(KPD)が結成された。
ベルリン・スパルタクス団蜂起ベルリンで武装抵抗する革命派

1919年1月5日、独立社会民主党員であったベルリンの警視庁長官エミール・アイヒホルン(de)が辞職させられたことをきっかけとして政府に反対する大規模なデモが起き、武装した労働者が主要施設などを占拠した。これに対して独立社会民主党や共産党は無為無策に終始したため、翌日デモは自然解散した。政府は革命派への本格的な武力弾圧を開始し、以降「一月闘争」(スパルタクス団蜂起)と呼ばれる流血の事態が続いた。

1月9日、ノスケの指示によって、旧軍兵士によって編成されたフライコール(ドイツ義勇軍)がベルリンに到着し、スパルタクス団などの革命派と激しい戦闘を展開した(スパルタクスの週)。1月15日までには革命派は鎮圧され、また同日、革命の象徴的指導者であったカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは殺害された[22]
国民議会選挙によるワイマール共和国の成立

1月19日国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得した。2月6日ヴァイマルの地で国民議会が召集された。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認され、いわゆる「ワイマール共和国」が誕生した[22]

1919年2月、ワイマール国民議会で大統領にエーベルト、首相にシャイデマンが選出され、社会民主党、中央党、民主党によるワイマール連合政府が形成された[22]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:86 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef