ドイツ革命
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軍政下のミュンヘンで6月にバイエルン軍第四集団のカール・マイヤー大尉が作ったミュンヘン大学での反ボルシェビキ講座に参加したヒトラーはそこで才能を認められた[25]。9月16日、ヒトラーはアドルフ・ゲムリヒへの書簡で、ユダヤとは宗教ではなく人種の問題であり、感情的な反ユダヤ主義はポグロムにとどまるが、理性的な反ユダヤ主義はユダヤ人の権利を体系的に剥奪し、「最終目的はユダヤ人の完全な排除」にあると回答した[25]。9月後半、ヒトラーの弁論の巧みさに強い印象を受けたアントン・ドレクスラーは、ヒトラーをドイツ労働者党に誘い、ヒトラーは入党した[35]。ドイツ労働者党は1919年1月5日、ドレクスラー、ディートリヒ・エッカートゴットフリート・フェーダーカール・ハラーによって結党されていた。
その後のドイツ社会への影響第二次世界大戦末期のイギリス外相アーネスト・ベヴィン

先の世界大戦後に、カイザーの体制を崩壊させなかったほうが、われわれにとってはよかったと思う。ドイツ人を立憲君主制の方向に指導したほうがずっとよかったのだ。彼らから象徴を奪い去ってしまったがために、ヒトラーのような男をのさばらせる心理的門戸を開いてしまったのであるから。――1945年7月、於ポツダム会談[36]
反ユダヤ主義#ヴァイマル共和政 (1919年 - 1933年)」を参照

ドイツ革命により帝政が打倒され、共和国が樹立されたが、ドイツを世界大戦に導き、軍国主義を積極的に支えてきた帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存された。彼らの後援による極右勢力、右翼軍人らの共和国転覆の陰謀、クーデターの試みは右から共和国と政府を揺さぶり、一方、極左党派は左から社会民主党の「社会主義と労働者への裏切り」を激しく攻撃した。これら左右からの攻撃がヴァイマル共和国の政治的不安定さの一因となった。

左翼革命に反発した右派は、いわゆる匕首伝説を流布させていった。パウル・フォン・ヒンデンブルクやルーデンドルフが言明し、ヒトラーをはじめとするナチ党などは、第一次世界大戦で依然として戦争遂行の余力があったドイツを、国内の社会主義者、共産主義者、ユダヤ人とそれに支持された政府が裏切り、「勝手に」降伏した、もしくは「背後の一突き」を加えたことによりドイツを敗北へと導いたとするデマゴギーが生まれ、反ユダヤ主義が高まっていった[4][37]。また、人民委員政府のエーベルトもベルリンの帰還兵を前に「いかなる敵も諸君を打ち破れなかった」としてドイツ軍不敗の神話を演説し、匕首伝説の拡大を支えた[37]。このほか、新しいドイツ・ナショナリズムとしての「保守革命」なども展開した。ヒトラーはドイツ11月革命を「国家と民族への犯罪」として演説で繰り返し、レーテ共和国を持ち出すことは「背後からの一突き」や国際ユダヤ人陰謀論に説得力を持たせることとなった[25]ハプスブルク家を批判していたヒトラーは後に宮廷勢力に関わらないですむようにしてくれたことだけは革命を起こした社会民主党に感謝すると述べている[25]

ミュンヘンではレーテ共和国革命とそれに続く内戦は、ソ連等外国の共産党勢力に押しつけられた「恐怖支配」として住民の記憶に残った[25]。さらにドイツ全土でも、バイエルン革命はロシアのボリシェヴィキとユダヤ人がドイツを乗っ取るという見方が広まり、中産階級向けの新聞ミュンヒナー・ノイエステ・ナハリヒテン紙は「ロシア・ボリシェヴィズム工作員」である共産党が「罪のない人々を虐殺した」とし、これは「人道と正義の法に対する罪」であると報じた[25]共産主義への恐怖は保守的な中産階級と農村部に浸透し、ドイツの人民の間で急進右翼が支持されるようになり、これ以降、バイエルンは反革命の巣窟となった[25]。レーテ共和国崩壊後、40万の兵士を擁するバイエルン住民防衛軍が編成された[38]。バイエルンでの右翼勢力の発展は、ミュンヘンでのナチス結成につながっていった[39]

1920年3月13日に右派クーデターカップ一揆がベルリンで発生した。これに対抗したルール地方の左派労働者が蜂起した(ルール蜂起)。ルール労働者評議会(レーテ)が結成され、一部がルール赤軍として反乱を起こしたが、3月から4月にかけてヴァイマル共和国軍によって多数の犠牲者を出して鎮圧された。
評価

ドイツ革命は、フランス革命より地味で、社会主義者からは「裏切られた革命」と映るが、ローベルト・ゲルヴァルトは著作『史上最大の革命』で、ほぼ無血革命で、極右も極左も民衆の支持を得られずに大統領エーベルトらの現実主義が機能し、家父長的な帝政から女性参政権・検閲廃止・労働者権利拡大などの実現を評価して「史上最大の革命」と評した[40]
脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
^ a b c d e 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
^ a b ポリアコフ4,pp.416-434.
^ a b c d ドイツ史 3 1997, p. 102.
^ 米本昌平、松原洋子、島次郎、市野川容孝『優生学と人間社会』講談社〈講談社現代新書〉、2007年7月、104頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-06-149511-9。 
^ 米本他『優生学』pp.103-104.
^ 米本他『優生学』p.104.
^ 牧野雅彦, 2009 & p.24-29.


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