ドイツ革命
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国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認され、いわゆる「ワイマール共和国」が誕生した[22]

1919年2月、ワイマール国民議会で大統領にエーベルト、首相にシャイデマンが選出され、社会民主党、中央党、民主党によるワイマール連合政府が形成された[22]。これら3党は革命以前のマックス・フォン・バーデン政府の支柱であった[22]。後には、当時世界で最も民主的な憲法とされたワイマール憲法が制定された。

スパルタクス団蜂起以後、ワイマール共和国軍(フライコールと国防軍)は、各地に広がった労働者の武装蜂起(レーテ・ストライキ)、3月のベルリンでのゼネスト、5月にミュンヘンのレーテ共和国を鎮圧し、ドイツ革命は終焉を迎えた[22]
バイエルン革命
アイスナー政権クルト・アイスナーアントン・グラーフ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ伯爵「バイエルン・レーテ共和国」を参照

バイエルン王国では共産主義者がソビエト体制を構築しようとして内戦状態となり、またアイスナー首相はユダヤ人であったので右派の「匕首伝説」の筋書きの通りとなった[25]。1918年11月7日、首都ミュンヘンで独立社会民主党のユダヤ人クルト・アイスナーが共和政府樹立を宣言した。同日、ミュンヘンのデモ隊が軍駐屯地に向かったが、軍は無抵抗であった[25]。軍の支援がなかったドイツの帝政は崩壊した[25]。革命が成立した要因には、戦局の悪化による厭戦感情と、オーストリアの降伏によりバイエルンが戦場となることへの危機感があった。11月7日夜、療養中のバイエルン王ヴィッテルスバッハ家ルートヴィヒ3世一族は逃亡した[26]

アイスナーはレーテを国制の基礎に置こうとしたが、中産階級をレーテに取り込もうとしたためプロレタリア独裁が実現できないとして共産主義者から「疑似レーテ共和国」と批判された[25]。また、社会民主党などからの議会の設置要求を拒否できず、1月12日に選挙を実施した。その結果、独立社会民主党は180議席中3議席に留まった。さらにアイスナーが世界大戦の端緒となったオーストリアのセルビアへの最後通牒にドイツが共謀していたという公文書を公開すると、国家への背信であるとしてアイスナー暫定首相は1919年2月21日トゥーレ協会会員のユダヤ系のアルコ・ファーライ伯爵に暗殺された[25]。アイスナー暫定首相の暗殺後、バイエルンは無政府状態となった[25]
ランダウアー・トラー政権

共産主義者はこの混乱に乗じて共産主義政権の樹立を目論むが、4月6日に無政府主義者のグスタフ・ランダウアー、独立社会民主党員の劇作家のエルンスト・トラーらが革命を起こした。トラー政権には自由貨幣の提唱者であるシルビオ・ゲゼルが金融担当大臣として入閣していた。文学青年の集まりであった新政権は体制を維持できなかった。
レヴィーネ政権とミュンヘン内戦

一週間後の4月13日スパルタクス団創設者の一人であるロシア出身のユダヤ人革命家オイゲン・レヴィーネ率いる共産主義者が革命を起こし、政権を奪取した(バイエルン・レーテ共和国)。レヴィーネは「プロレタリア独裁を打ち立てた」と宣言し、10日間ゼネストを宣言した[25]

モスクワのボリシェビキ政権はバイエルンの共産主義政権を革命の拠点になりうるとして高く評価した。この間4月16日に当時のヒトラーがレーテ代表代理に選ばれており、フライコールに捕えられてから連隊の告発委員会に参加し、カール・マイヤーによって反ボリシェヴィキ講習のあとドイツ労働者党におくりこまれる。

4月30日、ルイトポルト・ギムナジウムにおいて「赤軍独裁」を宣言した23歳の水兵エグルホーファーが、トゥーレ協会会員を含む人質8人と政府軍兵士2人を拷問の果てに白軍への報復として処刑した[25]。捕虜殺害の報によって反革命軍は奮い立ち、ミュンヘン市街戦が展開して、死者660人に達した[25]。レヴィーネは捕らえられ、7月5日に処刑され、バイエルン革命は終焉した。

1919年5月11日、フォン・メール少将指揮下バイエルン軍第四集団が編成され、バンベルクに避難していたバイエルン政府組織に代わって無政府状態となっていたミュンヘンに軍政を敷いた[25]
バイエルン革命期のヒトラー

アドルフ・ヒトラーはドイツ革命について共産主義者とユダヤ人による犯罪と繰り返し述べたが、バイエルン革命期のヒトラーは、兵士評議会が管理する軍に配属されており、この時期の自身の行動について話そうとはしなかった[27]

1914年、バイエルン王国軍への入隊を志願したヒトラーは第16予備歩兵連隊に配属され、伝令兵として従軍した[28]。1916年ソンムの戦いでヒトラーは左大腿を負傷し、ベーリッツ・サナトリウムに入院したが、療養中にミュンヘンを訪れ、人々の士気の低下や、ユダヤ人事務員が多いことに衝撃を受け、前線ではユダヤ人兵士は少ないとした[29]。大戦末期の1918年10月14日、ヒトラーは敵軍のマスタードガス攻撃を受けてパーゼヴァルク病院に搬送され、そこで敗戦とドイツ革命を知った[30]

ヒトラーは1918年11月にミュンヘンに戻り、トラウンシュタイン戦争捕虜収容所の看守として配属されたが、収容所を管理していたのも兵士評議会だった[31]。1919年2月には収容所解体にともないミュンヘンに戻り、第二動員解除中隊に配属され、ミュンヘン中央駅警備にあたった[32]。また、所属連隊命により、ヒトラーは2月に左翼兵士・労働者1万人のデモ隊に参加している[33]

ヒトラーは1919年4月3日付けで所属部隊代表であったという記録が残っており、社会主義政府のプロパガンダ部門に協力した[27]。第二レーテ共和国宣言翌日の4月14日、ミュンヘン兵士評議会は新政府支持を確認するために選挙を行ったが、ヒトラーは大隊副代表に選出された[27]。ただし、この時期のヒトラーについては不明な点が多く、革命の指導者エルンスト・トラーによればヒトラーは当時、社会民主主義者を名乗っており、またヒトラー自身も「誰しも一度は社会民主主義者だったことがある」と1921年に述べたことがあった[34]

軍政下のミュンヘンで6月にバイエルン軍第四集団のカール・マイヤー大尉が作ったミュンヘン大学での反ボルシェビキ講座に参加したヒトラーはそこで才能を認められた[25]。9月16日、ヒトラーはアドルフ・ゲムリヒへの書簡で、ユダヤとは宗教ではなく人種の問題であり、感情的な反ユダヤ主義はポグロムにとどまるが、理性的な反ユダヤ主義はユダヤ人の権利を体系的に剥奪し、「最終目的はユダヤ人の完全な排除」にあると回答した[25]。9月後半、ヒトラーの弁論の巧みさに強い印象を受けたアントン・ドレクスラーは、ヒトラーをドイツ労働者党に誘い、ヒトラーは入党した[35]


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