ドイツ革命
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その日の内にヴィルヘルム2世オランダに亡命した[22]。一方、ベルリンの労兵レーテは人民委員評議会を承認したものの、独立社会民主党の左派である革命的オプロイテが半数を占める大ベルリン労兵レーテ執行評議会(ドイツ語版)を選出し、ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言し、二重権力状態が生まれた[23]

11月10日夜、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息を図るエーベルトのもとに、グレーナー参謀次長から電話があり秘密会談がもたれた。その結果として、エーベルトらは革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供すること、また軍は、軍の維持と将校の権威の回復など旧来の将校組織を温存するという協定が結ばれ(エーベルト・グレーナー協定(ドイツ語版))、人民委員評議会政府とドイツ軍の相互依存関係が始まった[24]。エーベルトはまた旧来の官僚組織を温存し、社会民主党員を派遣することで行政機構を維持しようとした[24]。一方、海軍は水兵の反乱で将校の権威が失墜したまま混乱が続き、維持は認められたが革命を制圧する能力はなかった[24]。しかし首都の治安を守るためにクックスハーフェンから呼び寄せた水兵とベルリンの水兵による「人民海兵団(ドイツ語版)」が結成された。しかし海兵団には次第に革命的オプロイテが浸透し、左傾化していくことになる。

11月11日、ドイツ代表のマティアス・エルツベルガー、グレーナーらが連合国との休戦条約に調印し、第一次世界大戦は公式に終結した[22]
模索期

11月15日には、先の政治協定と似た形で、労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。(シュティンネス・レギーン協定(ドイツ語版))労働組合や労働運動の急進化を防ぐために、団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容としていた。

12月16日、全国労兵レーテ大会では、急進派が、ドイツ帝国軍の解体と「国民軍」の創設を要求したが、エーベルトはこれを無視して、多数派を占める社会民主党員の賛成により翌1919年1月19日の国民議会選挙を決定した[22]。これに反発した独立社会民主党は政府から離脱し、同党左派のスパルタクス団は1918年12月末共産党を結成し、翌1919年1月の選挙ボイコットを決定した[22]

12月23日ベルリン王宮を占拠していた人民海兵団を武装解除しようとエーベルトが派遣した部隊との間に戦闘が起きたが、結局は撃退された。これに抗議して独立社会民主党は政府から離脱した(人民海兵団事件(ドイツ語版))。新政府にはノスケが入閣し、軍事問題を扱うこととなる。

12月30日ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を中心にドイツ共産党(KPD)が結成された。
ベルリン・スパルタクス団蜂起ベルリンで武装抵抗する革命派

1919年1月5日、独立社会民主党員であったベルリンの警視庁長官エミール・アイヒホルン(de)が辞職させられたことをきっかけとして政府に反対する大規模なデモが起き、武装した労働者が主要施設などを占拠した。これに対して独立社会民主党や共産党は無為無策に終始したため、翌日デモは自然解散した。政府は革命派への本格的な武力弾圧を開始し、以降「一月闘争」(スパルタクス団蜂起)と呼ばれる流血の事態が続いた。

1月9日、ノスケの指示によって、旧軍兵士によって編成されたフライコール(ドイツ義勇軍)がベルリンに到着し、スパルタクス団などの革命派と激しい戦闘を展開した(スパルタクスの週)。1月15日までには革命派は鎮圧され、また同日、革命の象徴的指導者であったカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは殺害された[22]
国民議会選挙によるワイマール共和国の成立

1月19日国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得した。2月6日ヴァイマルの地で国民議会が召集された。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認され、いわゆる「ワイマール共和国」が誕生した[22]

1919年2月、ワイマール国民議会で大統領にエーベルト、首相にシャイデマンが選出され、社会民主党、中央党、民主党によるワイマール連合政府が形成された[22]。これら3党は革命以前のマックス・フォン・バーデン政府の支柱であった[22]。後には、当時世界で最も民主的な憲法とされたワイマール憲法が制定された。

スパルタクス団蜂起以後、ワイマール共和国軍(フライコールと国防軍)は、各地に広がった労働者の武装蜂起(レーテ・ストライキ)、3月のベルリンでのゼネスト、5月にミュンヘンのレーテ共和国を鎮圧し、ドイツ革命は終焉を迎えた[22]
バイエルン革命
アイスナー政権クルト・アイスナーアントン・グラーフ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ伯爵「バイエルン・レーテ共和国」を参照

バイエルン王国では共産主義者がソビエト体制を構築しようとして内戦状態となり、またアイスナー首相はユダヤ人であったので右派の「匕首伝説」の筋書きの通りとなった[25]。1918年11月7日、首都ミュンヘンで独立社会民主党のユダヤ人クルト・アイスナーが共和政府樹立を宣言した。同日、ミュンヘンのデモ隊が軍駐屯地に向かったが、軍は無抵抗であった[25]。軍の支援がなかったドイツの帝政は崩壊した[25]。革命が成立した要因には、戦局の悪化による厭戦感情と、オーストリアの降伏によりバイエルンが戦場となることへの危機感があった。11月7日夜、療養中のバイエルン王ヴィッテルスバッハ家ルートヴィヒ3世一族は逃亡した[26]

アイスナーはレーテを国制の基礎に置こうとしたが、中産階級をレーテに取り込もうとしたためプロレタリア独裁が実現できないとして共産主義者から「疑似レーテ共和国」と批判された[25]。また、社会民主党などからの議会の設置要求を拒否できず、1月12日に選挙を実施した。その結果、独立社会民主党は180議席中3議席に留まった。さらにアイスナーが世界大戦の端緒となったオーストリアのセルビアへの最後通牒にドイツが共謀していたという公文書を公開すると、国家への背信であるとしてアイスナー暫定首相は1919年2月21日トゥーレ協会会員のユダヤ系のアルコ・ファーライ伯爵に暗殺された[25]。アイスナー暫定首相の暗殺後、バイエルンは無政府状態となった[25]
ランダウアー・トラー政権

共産主義者はこの混乱に乗じて共産主義政権の樹立を目論むが、4月6日に無政府主義者のグスタフ・ランダウアー、独立社会民主党員の劇作家のエルンスト・トラーらが革命を起こした。トラー政権には自由貨幣の提唱者であるシルビオ・ゲゼルが金融担当大臣として入閣していた。文学青年の集まりであった新政権は体制を維持できなかった。
レヴィーネ政権とミュンヘン内戦


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