その2日後、バーダーらは逮捕され、翌年、3年の刑を言い渡されたが、恩赦を受け、出獄する。連邦憲法裁判所はこの決定を不服とした。翌1970年4月、バーダーは再び逮捕されたが、マインホフの手引きにより脱獄する。警察から逃れるために中東に渡った。 1970年5月には、日本の赤軍派に共感して「赤軍派」(Rote Armee Fraktion, ドイツ赤軍)と改称。日本赤軍と同じようにレバノンのPFLP訓練施設で戦闘訓練を受けた。アラブ人とは仲が悪かったが、革命活動に、あらゆる武器が使用できるようになった。加えて高度な技術で改良された爆発物も彼らによって製造、使用された。 1972年5月には西ドイツ各地で資金獲得のための銀行強盗、警官射殺、駐留アメリカ軍、政府要人を狙った連続15件の爆破行動を起こした。同年6月1日、フランクフルト市内で幹部4人と警官隊の間で銃撃戦が行われ、アンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフたちは逮捕され、シュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監される。 直近に発生したテルアビブ空港乱射事件の犯人らが、同じ時期にドイツ赤軍が中東でゲリラ訓練を受けていたこと、潜伏先のフランクフルトからテルアビブへ出発したことから関連性も指摘された[3]。 彼らの逮捕後は、弁護士で赤軍シンパのクラウス・クロワッサン(Klaus Croissant)とジークフリート・ハーク(Siegfried Haag)が組織の後継者となる「第二世代」のメンバーの勧誘と訓練などを行いながら、獄中の「第一世代」と面会しその声明をマスコミや支援者らに伝えていた。 裁判は刑務所と裁判所の往復中に奪還されるのを恐れ刑務所の敷地内の多目的ビルで1975年に開催され、厳重警戒のなか進められた。獄中でドイツ赤軍第一世代は何度も大規模なハンガーストライキを行い、マインホフは1976年に刑務所内で自殺するが、他メンバーは激しい獄中・法廷闘争を繰り広げた。 第二世代は、無政府主義のテロリストグループ「六月二日運動
1970年代
ドイツの秋詳細は「ドイツの秋」および「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」を参照
1977年には政財界の重要人物を連続誘拐して政府を混乱させ意志をくじき、獄中の第一世代を解放するという「77年攻勢」を開始。ブリギッテ・モーンハウプトとクリスティアン・クラーを新たな指導者として、ジークフリート・ブーバック西ドイツ連邦検事総長、ユルゲン・ポントドレスデン銀行会長など、政財界や司法界の重要人物を相次いで暗殺し、西ドイツを震撼させた。
1977年9月5日には西ドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーを誘拐したが、西ドイツ政府は第一世代の釈放に応じなかった。ドイツ赤軍は政府にさらに圧力を加えるためパレスチナ解放人民戦線にハイジャックを起こすことを要請し、10月にはルフトハンザ航空181便ハイジャック事件が起きるが、ハイジャック機がソマリアのモガディシュに着陸したところを西ドイツ政府によって派遣された特殊部隊GSG-9が急襲した。結果、ハイジャック犯3名は射殺、1名を逮捕、乗客人質全員が救出された。ハイジャックの失敗を知ったバーダーらは獄中で自殺。10月19日、ドイツ赤軍は誘拐したシュライヤーを殺害、遺体はフランスで発見された。 1982年には、リーダーが逮捕されたもののフランスの極左組織直接行動とベルギーの戦闘的共産主義者細胞の残党を吸収して活動を再開。攻撃目標をNATOや軍関連の人物や施設に向けてさかんに暗殺、爆破をおこなった。また西ドイツのヨーロッパ各国の在外公館襲撃や、シーメンス会長暗殺などの西ドイツの経済界の暗殺も活発に行った。 しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊し冷戦が終結すると、資金源となっていた東ドイツや東欧諸国を失い、また「帝国主義打倒」、「資本主義打倒」という目標や存在基盤を失った。
1980年代