ドイツ義勇軍
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彼らはドイツ社会民主党メンバーで国防大臣グスタフ・ノスケから多大な支援を受け、ノスケは彼らをドイツ革命の鎮圧や1919年1月15日カール・リープクネヒトおよびローザ・ルクセンブルクの処刑を含むマルキスト・スパルタクス団の壊滅、ブレーメンのレーテ政府、ルール地方や中部ドイツなどで発生したゼネスト、1919年のバイエルン・レーテ共和国打倒などに利用した[2]。共産主義者への憎悪は凄まじく、リープクネヒト、ローザ両人の遺体は、確認が困難な状態になるほど痛めつけられていた。

義勇軍はまた、第一次世界大戦後、バルト三国シレジアおよびプロイセンで戦い、ときに大きな成功を収めた。バルト諸国におけるボリシェヴィキら率いる赤軍との戦いの際、保守革命的な心情を抱く一部の義勇軍は彼らの不屈な革命精神に感化され親近感を抱き、後の保守革命の思想である革命的ナショナリズムやナショナルボルシェヴィズムに影響を与えた。ラトビアで活動したバルト義勇軍がドイツ国外のフライコールとしてはよく知られている[2]。バルト義勇軍は、連合国の黙認のもとで、ボルシェヴィキを阻止する代わりに現地に入植する契約を現地政府と交わしていた[2]

義勇軍の心情にもう一つ影響を与えたのは、反市民的生活感情をもつ青年運動と第一次世界大戦における特攻隊(Stostrupp)の体験である[3]。特攻隊とは、特訓を受けた機動力をもつ3人1組の小さな戦闘組織で、士官と兵士達がお互いに「君(du)」で呼び合う青年運動における組織原理に似た組織であり、エルンスト・ユンガーもこの特攻隊の隊長だった。義勇軍の種類は様々でその活動勢力の中心は旧勢力を代表する将軍達ではなく、ナチのレーム大尉やエアハルト海軍少佐、ベルトルト少尉、ロスバッハ少尉、シュルツ少尉、シュラゲター少尉などの旧勢力に反発する下級将校からなっていた。大半が反動的な将軍達とは違ってこれらの若い将校達は、何らかの形でプロイセン軍国精神と社会主義を結びつけようとしていた。旧海軍将校で戦後、義勇軍に属したフランケ(Helmut Franke)によると

「将校と社会主義の理念は互いに修正し合わなければならぬ。こうして、プロイセン将校の私欲なき義務遂行の理想を社会主義者達にも伝えることができる。さらに、プロイセン将校の国家観は社会主義者達の階級的エゴイズムを変えさせ、他方、社会主義者達の方も将校に社会行動の理論や大衆心理に対する理解を教えることができる。将校の国家的心情と社会主義者の力との相互の関係から将来の将校が生まれる[4]。」

このような新しい感情をもつ血の気の多い若手将校達に指揮された義勇軍が中央に従わないアナキズム的な風潮に染まっていったのは言うまでもなく[5]、例えばゲオルク・メルカーの義勇軍はその直属の上部機関にあたる第17軍管区司令部の反対を無視して、祖国に対する忠誠のシンボルである銀製のオーク徽章を身に付け、更にその各分隊はそれぞれ思いの徽章をまとっていた[6]。これらの義勇軍はベルリンブレーメンミュールハイムドレスデンハレライプツィヒミュンヘンルール地方などにおける極左の暴動鎮圧に動員され、他にはバルト地方沿岸やオーバーシュレージェンの国境防衛にあたっていた。これら義勇軍は政府の命令によって解散させられると地下活動に専念し、「労働キャンプ」を作り土地の地主達と結託して半農・半軍事教練や反抗農民の鎮圧に加わったり、トラック会社、自転車貸業、私立探偵事務所、サーカス一座などを運営し、表向きは市民生活の偽装をこしらえ裏では禁止されていた武器弾薬の調達を図り「黒い国防軍」などの団体、組織に関係し自分たちの浮上する機会を窺っていた。

フライコールには指揮官の名前を冠したものが多かったことからわかるように、指揮官との人的紐帯の強い組織だったため、共和国に忠誠を誓わなかったのは勿論として、国防軍指導部にも従わなかった[2]。そのため軍部からは嫌われており、正規の国防軍編成の際に排除されたケースが多かった[2]


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