ドイツ統一の日
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また1963年からこの日は連邦大統領の布告により「ドイツ民族の記念日」となった[2]
東ドイツ

東ドイツでは1949年10月7日に建国を宣言したことから、10月7日を建国記念日(共和国の日 (東ドイツ)(ドイツ語版) Tag der Republik )とし、祝日とされていた[3]。この日には、カール=マルクス=アレーでの国家人民軍の軍事パレードなどが行われていた。建国40周年となる1989年10月7日のすぐ後に社会主義統一党による一党独裁制が終焉し、翌年の10月7日より前に西ドイツへ吸収されたため、1989年10月7日が最後の「共和国の日」となった。
再統一以後東西ドイツの両代表が交わした統一条約
ベルリンの連邦外務省で展示されている詳細は「ドイツ再統一」を参照

1990年10月3日ドイツ再統一後、当初は1989年にベルリンの壁が崩壊した日である11月9日が国民の祝日に指定されていた。ところが、この日は1923年のヒトラー・ルーデンドルフ一揆、1938年の水晶の夜がそれぞれ起こった日でもあり、祝日とするのは不適切であると考えられたため、再統一ドイツが成立した10月3日を国民の祝日とした。

ドイツの歴史における11月9日については、「特異日」も参照すること。
1990年の展開

第二次世界大戦以来はじめて、ベルリンの帝国議会議事堂へドイツ全土から選挙された国民の代表が入っていった。統一条約の第2条において10月3日の「ドイツ統一の日」(Tag der Deutschen Einheit。1990年以降のもので、Deutschen の D が大文字となっている)をドイツ連邦共和国における法律上の祝日とすることがうたわれており[4]、これによって連邦法でも10月3日をドイツ統一の日として祝日とすることが定められている。連邦としての国民の祝日はこのドイツ統一の日のみであり、ほかの祝日は連邦州ごとに定めたものである。

10月3日を選んだ経緯として、東ドイツは1990年の一連のできごとを受けて経済や政治の崩壊を恐れたことからできるだけ早い期日を目標としており、東西ドイツとアメリカ合衆国ソビエト連邦イギリスフランス2プラス4による協議の結果が欧州安全保障協力機構の外相会合において報告されることになっていたのが1990年10月2日であったため、もっとも早く統一できる期日というのが1990年10月3日水曜日だったのである。またこの年の7月上旬には東西ドイツの両政府のあいだで、東ドイツ各州の議会選挙を10月14日に、再統一ドイツの連邦議会選挙を12月2日にそれぞれ実施することを決定していた[5]

この結果、統一条約のための協議中に両国内において選挙法や日程といったことが議論となった。他方で東ドイツでは経済情勢が目に見えて急速に悪化し、そのため同年3月に行われた人民議会選挙のあとに閣僚評議会議長となっていたロタール・デメジエールは東ドイツ各州の西ドイツへの編入を急がせていた。ところが8月上旬に、西ドイツの連邦議会において再統一ドイツにおける総選挙の期日を10月14日に早めることに失敗し、結局は12月2日に実施することとなった。選挙の共同実施や選挙法の整備といったものは予定通りに進んでいたが、選挙人名簿は遅くとも投票日の8週間前までに作成されなければならず、この期限は1990年10月7日日曜日となった。選挙人名簿の規定によりすべての有権者は、選挙区域となる州に40週以上居住する市民でなければならなかった。このため「連邦政府は10月2日以降の期日であれば統一を受け入れる」[6]という閣議決定により、東ドイツ諸州が西ドイツに編入するもっとも早い期日が定められた。統一の期日の決定は8月22日午後9時に開始された人民議会の特別会議でデメジエールが表明した。激しい議論ののち、日付が変わった8月23日午前2時30分、人民議会議長兼東ドイツ暫定国家元首のザビーネ・ベルクマン=ポールは以下のように述べて採決の結果を報告した[6]

(日本語仮訳)人民議会は1990年10月3日より、ドイツ連邦共和国基本法第23条の規定に従って、ドイツ民主共和国を同法の効力のもとに編入することを宣言します。これはみなさんのお手元の印刷物第201号に提示しております。投票総数は363でした。このなかに無効となる票はありません。294名の議員が賛成票を投じております(CDU/DADSUFDPから大きな拍手が起こり、SPDの一部の議員は立ち上がった)。

62名の議員が反対票を投じ、7名の議員が投票を棄権しております。議員のみなさん、これはまさに歴史的事件であると私は思います。私たちは軽くはない決断を下しましたが、これはドイツ民主共和国の市民に対する責任を果たし、有権者の意思に適うものであります。政党の垣根を越えて意見を集約し、今回の結果を導く努力をされたすべてのみなさんに私は感謝を申し上げます。

議会の決定後ただちに、社会主義統一党/民主社会党 (SED/PDS) 議長のグレゴール・ギジは声明を発表し「議会は1990年10月3日にドイツ民主共和国を破滅させることを決したに過ぎない」と応じた[6][7]
祝日としての制定

統一条約は8月23日に署名されたが再統一ドイツでは条約署名も10月3日に祝ったため、1990年の西ドイツ地域では6月17日と10月3日が祝日となった。とくに1990年10月3日はドイツ統一旗がベルリンの帝国議会議事堂に掲げられた。

国法学上、ドイツ再統一は東ドイツがドイツ連邦共和国基本法の効力下に編入されたものである。このような憲法の移行によって再統一は東ドイツ市民や自由選挙で選出された人民議会が望んだように迅速に行なうことができた。
2004年の廃止議論

2004年11月3日、当時連邦首相だったゲアハルト・シュレーダーは経済活性化のために祝日としてのドイツ統一の日を廃止することを求め、従来行なわれている再統一記念行事は10月の第1日曜日に行うことを提案した。ところがこの提案に対しては連邦大統領ホルスト・ケーラーや連邦議会議長のヴォルフガング・ティールゼなど多方面から批判された。シュレーダーのこの求めについて、一部の市民からは労働時間の増大になるとして怒りを買い、また別の市民からは祝日を軽んじるものだという意見が挙がった。ドイツ統一の日の祝日廃止構想は短期的に活発な議論となったが、まもなく立ち消えた。
公式行事

1990年以降、連邦参議院議長の連邦州の州都においてドイツ統一の日を祝賀する公式行事が行なわれている。祝賀行事はいわゆる「ケーニヒシュタイン協定」によって、連邦州の人口の降順で行なわれている。この順番は1990年10月20-21日にミュンヘンで開かれた連邦州首相会議で決定されたものであるが、その後再統一ドイツ内での住民の移動から各州の人口が変化したため、2016/17年までの開催順は実際の人口の順序とは多少異なっている[8]

ドイツ統一の日には慣例的に、連邦州や州政府が "Landermeile" と呼ばれる市民祭を開催している。この催事は以下の都市で行なわれてきた。

年都市連邦州年都市連邦州
1990 連邦首都ベルリン2001 マインツ ラインラント=プファルツ州(州都)
1991 自由ハンザ都市ハンブルク2002 連邦首都ベルリン
1992 シュヴェリーン メクレンブルク=フォアポンメルン州(州都)2003 マクデブルク ザクセン=アンハルト州(州都)
1993 ザールブリュッケン ザールラント州(州都)2004 エアフルト テューリンゲン州(州都)


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