62名の議員が反対票を投じ、7名の議員が投票を棄権しております。議員のみなさん、これはまさに歴史的事件であると私は思います。私たちは軽くはない決断を下しましたが、これはドイツ民主共和国の市民に対する責任を果たし、有権者の意思に適うものであります。政党の垣根を越えて意見を集約し、今回の結果を導く努力をされたすべてのみなさんに私は感謝を申し上げます。
議会の決定後ただちに、社会主義統一党/民主社会党 (SED/PDS) 議長のグレゴール・ギジは声明を発表し「議会は1990年10月3日にドイツ民主共和国を破滅させることを決したに過ぎない」と応じた[6][7]。 統一条約は8月23日に署名されたが再統一ドイツでは条約署名も10月3日に祝ったため、1990年の西ドイツ地域では6月17日と10月3日が祝日となった。とくに1990年10月3日はドイツ統一旗がベルリンの帝国議会議事堂に掲げられた。 国法学上、ドイツ再統一は東ドイツがドイツ連邦共和国基本法の効力下に編入されたものである。このような憲法の移行によって再統一は東ドイツ市民や自由選挙で選出された人民議会が望んだように迅速に行なうことができた。 2004年11月3日、当時連邦首相だったゲアハルト・シュレーダーは経済活性化のために祝日としてのドイツ統一の日を廃止することを求め、従来行なわれている再統一記念行事は10月の第1日曜日に行うことを提案した。ところがこの提案に対しては連邦大統領のホルスト・ケーラーや連邦議会議長のヴォルフガング・ティールゼなど多方面から批判された。シュレーダーのこの求めについて、一部の市民からは労働時間の増大になるとして怒りを買い、また別の市民からは祝日を軽んじるものだという意見が挙がった。ドイツ統一の日の祝日廃止構想は短期的に活発な議論となったが、まもなく立ち消えた。 1990年以降、連邦参議院議長の連邦州の州都においてドイツ統一の日を祝賀する公式行事が行なわれている。祝賀行事はいわゆる「ケーニヒシュタイン協定 ドイツ統一の日には慣例的に、連邦州や州政府が "Landermeile" と呼ばれる市民祭を開催している。この催事は以下の都市で行なわれてきた。 年都市連邦州年都市連邦州 近年、ドイツ統一の日にはベルリンのブランデンブルク門や6月17日通りでコンサートなどが開かれている。1997年からはモスク協会
祝日としての制定
2004年の廃止議論
公式行事
1990 連邦首都ベルリン2001 マインツ ラインラント=プファルツ州(州都)
1991 自由ハンザ都市ハンブルク2002 連邦首都ベルリン
1992 シュヴェリーン メクレンブルク=フォアポンメルン州(州都)2003 マクデブルク ザクセン=アンハルト州(州都)
1993 ザールブリュッケン ザールラント州(州都)2004 エアフルト テューリンゲン州(州都)
1994 ブレーメン ブレーメン州(州都)2005 ポツダム ブランデンブルク州(州都)
1995 デュッセルドルフ ノルトライン=ヴェストファーレン州(州都)2006 キール シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州(州都)
1996 ミュンヘン バイエルン州(州都)2007 シュヴェリーン メクレンブルク=フォアポンメルン州(州都)
1997 シュトゥットガルト バーデン=ヴュルテンベルク州(州都)2008 自由ハンザ都市ハンブルク
1998 ハノーファー ニーダーザクセン州(州都)2009 ザールブリュッケン ザールラント州(州都)
1999 ヴィースバーデン ヘッセン州(州都)2010 ブレーメン ブレーメン州(州都)
2000 ドレスデン ザクセン州(州都)2011 連邦市ボン ノルトライン=ヴェストファーレン州
そのほかの祝賀行事
出典^ “ ⇒Gesetz uber den Tag der deutschen Einheit, BGBl. 1953 I, S. 778” (jpg) (ドイツ語). 17Juni53.de. 2009年9月27日閲覧。
^ “ ⇒Proklamation des Bundesprasidenten Heinrich Lubke vom 11. Juni 1963 (BGBl. 1963 I, S. 397)” (PDF) (ドイツ語). Bundesministerium des Innern. 2009年9月27日閲覧。
^ “ ⇒Gesetz uber die Einfuhrung der Feiertage "Tag der Befreiung" und "Tag der Republik"” (ドイツ語). www.verfassungen.de. 2009年9月27日閲覧。