1989年10月には東欧革命により民主化の進む東ドイツで社会民主党(ドイツ語版)が再建され、西側社民党の支援を受けた。1990年9月にドイツ再統一を前にして東側社民党は西側社民党に合流した。1998年から2005年まで同盟90/緑の党と連立して首班で政権を担当し(シュレーダー内閣)、ついで2005年から2009年までと2013年から2021年までCDU/CSUと大連立を組んで連立与党となり、2021年からは同盟90/緑の党、自由民主党(FDP)と連立して首班として政権に就いている。(ショルツ内閣)
ラッサールが全ドイツ労働者協会を創設した1863年5月23日を党の創設日と見做しており[1]、ドイツ現存最古の政党にあたる[2]。国際的にもイギリス労働党、フランス社会党などと共に欧州の社会民主主義政党の中核的存在として知られる。
歴史
帝政時代
ラッサール派とアイゼナハ派ドイツ社会民主党の前身である全ドイツ労働者協会、社会民主労働者党、ドイツ社会主義労働者党に関連する人々。アウグスト・ベーベル(左上)、ヴィルヘルム・リープクネヒト(右上)、カール・マルクス(中央)、カール・ヴィルヘルム・テルケ(ドイツ語版)(左下)、フェルディナント・ラッサール(右下)
1863年5月23日、プロイセン王国の社会主義者フェルディナント・ラッサールがザクセン王国首都ライプツィヒにおいて全ドイツ労働者協会(ADAV)を創設した[16]。ドイツ社会民主党では、同協会の創設をもって自党の創設と見做している[1]。この協会は普通選挙を労働者階級の社会的利益を十分に代表させる手段として、その実現のため合法的手段で労働運動を組織する事を目的に掲げていた[16]。プロイセン衆議院の第一党であるドイツ進歩党(DFP)やドイツ国民協会(ドイツ語版)などブルジョワ自由主義者の影響力から脱して創設されたドイツで初めての労働者階級独自の政党だったが、指導者のラッサールは普通選挙や社会政策、ドイツ統一を実現するためには王党派のプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクと接近することも厭わなかったため、民主主義革命への志向は希薄になりがちだった[17]。
そうしたラッサールの親ビスマルク的労働運動を嫌っていたイギリス亡命中の社会主義者カール・マルクスの支持者ヴィルヘルム・リープクネヒトとアウグスト・ベーベルは、1866年にザクセン人民党を創設し、ついで1869年8月のアイゼナハ大会でマルクス主義的なアイゼナハ綱領(ドイツ語版)のもとに社会民主労働者党(SDAP)を創設し、ビスマルクによる小ドイツ主義ドイツ統一事業、すなわちオーストリアをドイツから排除してプロイセンの権威主義体制を全ドイツに拡大させる形でのドイツ統一に反対した。