SEDではSPD・KPD合併後、最初期は統合時の合意に従い指導部の半分ずつが旧KPDと旧SPDであったが、1948年6月に英米仏が西側の占領地区だけで通貨改革を行い、これに対抗してソ連がベルリン封鎖を行うなど東西の両陣営が対立を深めるようになると、ソ連占領地区ではソ連モデルの押し付けが始まった。結党当初の「ドイツにおける社会主義の道」は徐々に否定され、民主集中制に基づくソ連共産党型の党へ移行していき、1949年には両党同等の原則が否定された。1948年から1952年にかけては旧SPDの党員の追放・迫害が行われ、最高指導部でも1950年には15人の政治局員中旧SPD党員は3人しか残っていなかった。さらに、1950年からは旧KPDの古参党員も追放された。これらを主導したのがウルブリヒトであった[16][17]。
かつてのSPD党員の囚人達が、1971年に社会主義統一党中央委員会に宛てて書いた手紙には「五千人以上のかつての労働者運動の指導者たちが逮捕され、四百人以上がソ連占領地区の刑務所やソ連の強制収容所で死んだ」と書かれていた[9]。
こうして、社会主義統一党は実態は共産党と変らない政党となっていった。ただ1946年当時存在していた政党としてはドイツ最古であったSPDは、全国に強力なネットワークを持っていたため、KPDが政権を掌握する上での利用価値は非常に高かったとされる[18]。
このSPD・KPD合併のように、共産党が競合する社会民主主義政党左派を取り込んだのちに、社会民主主義政党出身者を粛清して共産党の独裁を確立するやり方はSED成立の後、ポーランド統一労働者党やハンガリー勤労者党など他の東欧社会主義諸国でも進められていくことになった[19]。 1949年10月、ソ連占領地区がドイツ民主共和国(東ドイツ)となると、ピークが国家元首である大統領、グローテヴォールが首相となったが、党および国家の実権は1950年に書記長(後に第一書記)となったウルブリヒトが掌握した[20][21]。 東ドイツは社会主義統一党(SED)とCDU、LDPD、そしてソ連がCDUとLDPDに対抗させるために結成させた民主農民党(DBD)・国家民主党(NDPD)の5党による人民民主主義の形態をとったが、CDUやLDPDの反共的な党員は逮捕されるか西ドイツへの亡命を余儀なくされ、1950年代以降、SED以外の4党はSEDの衛星政党となっていった[22]。 1952年には「社会主義の建設」が謳われ、農業の集団化、重工業の推進などソ連型社会主義のモデルに従った社会主義建設が急速かつ強硬に進められ、労働者のノルマも引き上げられた[23]。これに反発した労働者は1953年6月17日にピーク、グローテヴォール、ウルブリヒトらの解任を要求し東ベルリン暴動を起こしたが、東ドイツ政府はソ連軍の力を使って鎮圧した[24][25]。これによってウルブリヒトはソ連によって解任されそうになったが、解任すれば暴動は正しかったかのような印象を与えかねないため、ウルブリヒトは留任し[26]、逆に改革派の幹部や地方組織の幹部の多くが追放されたため、ウルブリヒトは権力基盤の強化に成功した[27]。政治的奸智に長け、駆け引きが巧いウルブリヒトは一流のスターリン主義者であり[28]、政敵を次々に排除していった。SED結成時に旧KPDからは7人が最高指導部入りしたが1953年にはピーク、ウルブリヒトの他には1名が残っただけで、それ以外は追放された。ただし、ウルブリヒトは政敵を追放したり刑務所に送り込んだりしたものの、スターリンやチェコスロバキアのスターリン主義者クレメント・ゴットワルトのように政敵を死刑にするのはつとめて避けている[29]。
ウルブリヒト時代