ドイツ社会主義統一党
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クレムリンからは、まずKPDの組織固めを優先せよという指示があったためである[4]

1945年6月10日ジューコフドイツ駐留ソ連軍最高司令官によって政党結成の許可が英米仏の占領地区よりも早く出され、SPD、KPD、キリスト教民主同盟(CDU)、自由民主党(LDPD)などの諸政党が正式に結成された。再結成当時のKPDは全ドイツに影響を与えるため、ソ連の指示によって社会主義的な要素を表に出さないようにしており、結党宣言では「社会主義」という言葉を使わず、私企業の育成を進めると表明するなど、一見するとヴァイマル共和政の復活を意図しているかのようであり、むしろSPDの方が社共統一を謳い、社会主義的、左翼的な印象を与える再結成宣言を出していた[5]。ウルブリヒトのドイツ再建基本策は「表面は民主的に見せかけなければならないが、共産党はすべての指導権を手に入れなければならない」というものだった[2]。ソ連占領地区のSPD幹部はソ連占領軍がドイツの民主化を進めるうえで最大の党員数を持つSPDを必要とするであろうと考えて社共統一を掲げたが、彼らの見通しは全く甘いものであった[6]

ソ連は占領地区でデモンタージュ(ドイツ語版)を行い、工場設備や鉄道の線路などを賠償名目で接収したが、こうしたソ連の政策は隣国オーストリアでもオーストリア共産党が支持していた。そのためか、オーストリアでは共産党は1945年11月の下院総選挙(ドイツ語版)で4議席しか獲得できなかった(オーストリア社会党は76議席を獲得し第2党)。ソ連当局はオーストリアでも社共は互角であると予測していたため、大きな衝撃を受けた[7]。これを機に、ドイツでもソ連当局とKPDは戦術を一変し、SPD・KPDの合同を打ち出すようになった。この頃にはソ連の後押しを受けたKPDの党員も増加して、1945年末にはSPDとほぼ互角の37万人となっていた[8]。一方、当初社共合同を打ち出していたSPDは守勢に回っていた。当初のSPDの幹部達の思惑と違ってソ連は占領政策でKPDを主に据え、SPDはあくまでも脇役にしか過ぎないことが明らかになってきており、印刷物・集会などの党活動でもSPDは不平等な扱いを受けていた。指導部も不平等合併を恐れるようになっていたが、幹部達は当初掲げた労働者階級政党の統一というスローガンを撤回することが出来なかった[9]

さらにSPD内部でもクルト・シューマッハー率いる英米仏占領地区のSPDはKPDとの合同には反対であり、頑として応じなかった。SPDは、東のグローテヴォールと西のシューマッハーの主導権争いによって分裂状態になっていた[9]

1945年12月中旬、ベルリンではソ連占領地区のSPD・KPDの代表30人ずつから成る「60人会議」が開催され、合同への路線が敷かれた。翌46年2月にはKPD側からソ連体制をモデルとしない「ドイツにおける社会主義の道」が提案された。これにはSPDの党員からも支持を受ける一方、ソ連占領地区で合同に反対する一部のSPD党員はヤミ商売や横領の容疑でソ連軍司令部に連行され、中にはスパイ容疑でソ連へ送られた者もあった[2]。また、メクレンブルクでは地区のソ連軍司令部にSPD・KPDの地区指導者が呼ばれ、乾杯して握手しただけでソ連軍司令官が「これで、わが地区の社共合同が実現がしたと報告できる」と言うなどして既成事実を積み上げていき、合併に躊躇するSPDに対してソ連当局は圧力を強めて行った[10]

1946年4月19日、20日にソ連占領地区のSPD、KPDはそれぞれ党大会を開いて合同を決議し、21-22日に合同党大会が開催されて党員60万人のKPDと68万人のSPDは統合(ドイツ語版)し、ドイツ社会主義統一党が誕生した。結党当初は「レーニン主義は採らない」「すべての機関はSPD・KPDを同数で出す」という原則が出され[11]党首も旧SPDのグローテヴォールと旧KPDのヴィルヘルム・ピークの共同議長制が導入されるなど、一見対等合併の装いがされたが、それはほんの一時期に過ぎなかった[12]。詳細は「ドイツ社会民主党とドイツ共産党の統合によるドイツ社会主義統一党の結党(ドイツ語版)」を参照@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

SEDの結党大会で握手するヴィルヘルム・ピーク(KPD)とオットー・グローテヴォール(SPD)。最前列右はヴァルター・ウルブリヒト。この握手が党章のモチーフになっている[13]

1950年の党ポスター。下に「SED あなたの政党!」と書かれている。

1959年まで党本部が置かれた旧ヨナス百貨店(ドイツ語版)(1951年)

ベルリンのSPDはシューマッハーの意を汲んだフランツ・ノイマンらが、KPDとの統合はベルリンの全党員の投票で決めるべきだとして、1947年3月31日の党員集会で賛否を決める投票が行われた。しかし、東ベルリンの党支部員達はソ連軍に党員集会への参加が禁止されたため、実際投票が出来たのは西ベルリンのSPD党員のみであった。その結果、KPDとの即時統一に賛成したのはわずか12.3パーセントであったため、ベルリンは東ベルリンも含めてSED成立後も、一定期間SPDが存続した[14](西ベルリンSPDが東ベルリンでも当面活動を許されていた。一方、西ベルリンKPDは「西ベルリン社会主義統一党(ドイツ語版)」と改称し、ドイツ統一まで活動を続けた)。なお、西側占領地区ではKPDは1956年連邦憲法裁判所より違憲判決を下され解散しているが、SPDはそのまま存続して現在に至っている。

労働者政党2党が合併して誕生したSEDだが、国民の人気はさほど高くなかった[13]。1946年10月、ソ連占領地区およびベルリンで州議会選挙(ドイツ語版)・地方選挙が行われたが大ベルリン(東西両地区)の市議会選挙(ドイツ語版)ではSPDが第一党[注釈 4]となり、SEDは第三党にとどまるという敗北(第二党がCDU)を喫し、他の州議会でもSEDはソ連軍の後押しで第一党とはなったもののCDUやLDPDとはほぼ互角の勢力しか確保できなかった。これ以降、ソ連占領地区では自由選挙は行われなくなった[15]
旧SPD党員達の追放・迫害

SEDではSPD・KPD合併後、最初期は統合時の合意に従い指導部の半分ずつが旧KPDと旧SPDであったが、1948年6月に英米仏が西側の占領地区だけで通貨改革を行い、これに対抗してソ連がベルリン封鎖を行うなど東西の両陣営が対立を深めるようになると、ソ連占領地区ではソ連モデルの押し付けが始まった。結党当初の「ドイツにおける社会主義の道」は徐々に否定され、民主集中制に基づくソ連共産党型の党へ移行していき、1949年には両党同等の原則が否定された。1948年から1952年にかけては旧SPDの党員の追放・迫害が行われ、最高指導部でも1950年には15人の政治局員中旧SPD党員は3人しか残っていなかった。さらに、1950年からは旧KPDの古参党員も追放された。これらを主導したのがウルブリヒトであった[16][17]

かつてのSPD党員の囚人達が、1971年に社会主義統一党中央委員会に宛てて書いた手紙には「五千人以上のかつての労働者運動の指導者たちが逮捕され、四百人以上がソ連占領地区の刑務所やソ連の強制収容所で死んだ」と書かれていた[9]


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