ドイツ海軍_(ドイツ連邦軍)
[Wikipedia|▼Menu]
利用可能なドイツ連邦海軍は連合軍の上陸計画に備えて、安全確保と主力海軍部隊が到着するまでの間バルト海沿海域の確保が求められた。予定された直上陸地点の確保は一義的にはドイツ連邦海軍が担う事になる。海軍初の調達計画で次の装備が求められる。駆逐艦高速艇掃海艇上陸用舟艇および海軍警備部隊を準備し、陸海空一体となった着上陸作戦に備えた。

連邦海軍の基礎はアメリカ合衆国軍の監督下で1956年1月2日以前まで海軍教育中隊と労務部隊(ドイツ掃海管理局)を通じて教育された。1956年4月1日にハンス=ヘルムート・クローゼが指揮するクローゼ高速艇教育戦隊がキールにて編成される。1956年5月2日に艦隊基盤司令部がヴィルヘルムスハーフェンにて任務を開始する。1956年6月15日に海軍司令部はマックス=エッカート・ヴォルフ海軍大佐の暫定指揮の下で任務を開始する。1956年5月16日に第1機雷捜索隊が12隻の掃海艇を基幹にヴィルヘルムスハーフェンにて編成され、1956年6月1日に第2啓開機雷調査隊が6隻の艦艇を基幹にブレーマーハーフェンにて編成される。艦艇については当初、終戦後から連合国軍が敷設した機雷の除去のため、旧ドイツ海軍艦艇を活用して米英に編入されて掃海活動に従事しており、再軍備にあたって西ドイツに返還された。戦闘艦艇についてはアメリカ海軍のフレッチャー級駆逐艦6隻やイギリス海軍のハント級護衛駆逐艦3隻、ブラックスワン級スループ4隻などの戦時建造艦艇を供与ないし購入し、国産艦艇の調達を開始するまでの繋ぎとした。これ以外にも、バルト海で戦没したUボートXXIII型2隻やUボートXXI型1隻を引き上げて、前2隻は訓練用に、後1隻は実験用に供された[5]

早くも1957年4月1日に第2啓開機雷調査隊はNATOの指揮構造に結合される。1957年秋頃の連邦海軍には次の装備があった。カペラ級掃海艇20隻、38型高速艇2隻、ヘーリング級高速艇6隻、ゼーフント級掃海艇6隻、護衛艦2隻、XXIII型Uボート2隻、練習艦艇8隻。その後、連邦海軍の構造はしばしば変更され、1974年に一応の完成を見て1990年まで存続する。1956年から1960年末までは海軍司令部(ヴィルヘルムスハーフェン、1958年に艦隊司令部に改編)、海軍基地司令部(ヴィルヘルムスハーフェン)、海軍訓練司令部(キール)、艦艇試験司令部(キール)の4個基幹コマンドが組織された。
再編成

1960年代初めにはこの計画が非現実的である事が露見した。東西ヨーロッパ諸国はすでに戦力の均衡を志向し、このような作戦計画は軍事バランスを揺るがしかねないものであった。したがって、優先順位の問題としてバルト海を確保する点に注力され、ソビエト連邦海軍によるデンマークおよびドイツ沿岸への着上陸を阻止する事が主任務となる。

新計画は基本的に次の事項がドイツ連邦海軍の義務として求められた。バルト海ではデンマーク海軍と共同でソビエト連邦海軍の着上陸を撃退するためのバルト海の封鎖や、バルト海の海上交通の封鎖に伴いワルシャワ条約機構軍の陸上部隊の強化と補給を遮断する事。北海ではドイツ連邦海軍は自己航路の保護に貢献する事が求められた。この航路は連合軍の援軍をオランダ、ドイツ、デンマークの港湾に輸送するためであった。1970年代から1980年代にかけてこれらの任務のために新装備を調達する。これらの内訳は40隻の最新鋭ミサイル高速艇、24隻の潜水艦、最新の掃海システムおよび112機のトーネード IDS戦闘攻撃機とヘリコプター搭載フリゲート(ブレーメン級)8隻であった。ドイツ連邦海軍がバルト海に展開していた海洋戦力は全海軍のおよそ三分の二に達していた。そしてより小規模なデンマーク海軍と共に縦深防衛システムを構築することに成功し、これを継続管理して仮想敵の着上陸作戦に対抗する。

これらの任務に基づき、ドイツ連邦海軍の作戦域は当初の運用計画ではバルト海および北海のドーバー・カレー線西方、北緯60度以北に展開するが、教育訪問については例外であった。この運用制限は1980年6月に解除され[7]、全体をNATO北側面領域と呼称される。

1961年以降はNATOの指揮構造に結合され連邦海軍内の改革がなされ次のように、艦隊司令部(グリュックスブルク=マイアーヴィク)、ヴィルヘルムスハーフェン基地司令部(ヴィルヘルムスハーフェン)、中央海軍司令部(ヴィルヘルムスハーフェン)の3個基幹コマンドが設けられ、さらに1965年に海軍局が組織される。1972年に以前と類似した組織構造に編制されることになり、1974年に連邦海軍の高等指揮機関は次の三つに分けられた。艦隊司令部(グリュックスブルク=マイアーヴィク)、海軍支援司令部(ヴィルヘルムスハーフェン)、海軍局(ヴィルヘルムスハーフェン)で、この組織構造は2000年まで維持された。
冷戦の終結と新世紀

1980年代半ば、3つの要因が連邦海軍に新しい方向性を位置づけた。一つ目はソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長ペレストロイカを推進し、米ソ首脳会談で核軍縮やアフガニスタン問題の解決に向けて歩み寄り、これに合わせてヨーロッパ情勢の変化のための政府間交渉を開始したことである。バルト海正面での脅威の低下は連邦海軍に完全な転換を必要とさせた。二つ目はNATO域外での新たな紛争である。イラン・イラク戦争で1987年にNATO加盟各国の海軍は石油タンカー等を護衛するためペルシャ湾に艦艇を派遣し、従来展開していた地中海に「力の空白」を生じた。西ドイツ海軍はこの空白を埋めて均衡を維持するために代替役を果たす必要性に迫られ、以来、艦艇部隊は地中海に常時展開する事になる。三つ目に、従来の装備を可能であれば早期にでも最新の武器システムへと一対一で更新する事が求められた。特に老朽化が著しかった第一世代掃海艦艇は最新艦艇に更新された。

1990年の東側5州の連邦共和国への加盟により東西ドイツ統一がなされ、1991年に海軍総監ハンス=ヨアヒム・マン海軍中将は2005年を目標とする、統一ドイツ海軍として更なる発展のための指針を提示する。

東西ドイツ再統一により旧東ドイツの人民海軍(Volksmarine)が編入され、統合事業が始まる。1995年に海軍指導部は組織の連続性にもかかわらず、これまで非公式ながらも使用されてきた「連邦海軍(Bundesmarine)」を「ドイツ海軍(Deutsche Marine)」に改め、以後は公式文書で旧名称を使用しないように通達が出された[3]

1990年以降、連邦海軍は基本的には以前の組織構造を維持したが、連邦軍全体は徐々に縮小されつつあり、連邦海軍も同様に削減される事になる。2プラス4条約の規定により旧東ドイツ地域は1994年末までNATO指揮下軍隊の入域を禁止していた。したがって、旧人民海軍の将兵達は当初のまま維持され、当初はシュトラウスベルクに設置された連邦軍東部司令部隷下にあるロストック海軍司令部の全面指揮下におかれた。そして1995年から統一ドイツ海軍は同一標準の新組織構造を採用しNATO加盟国による旧東領域への駐留を可能とした。東部海軍司令部は解散され、代わりに一部の新部門は東側地域に設立され(東部海軍司令部は一部が海軍術科学校に)、他には西側からいくつかの部隊や機関が移転する(高速艇隊群や海軍局)。

2000年にルドルフ・シャーピング連邦国防大臣は連邦軍制度改革の海軍組織について抜本的に変更する。一方、連邦軍の緩やかな継続的変革はこれまでの普通段階から踏み出して一挙に進められ、海軍はこの方針に拘束される。

1990年以前はバルト海で活動することを前提とした小型艦艇が主流であり、このため大型艦については異なる艦種を調達していた。同時に海軍将兵の定数は約25,000人まで削減される。これにより海軍の勢力は他軍種との構成比率が1990年以前の約10%からほぼ7.7%まで縮小される。

NATOの沿海域での活動について、ドイツ海軍は自己の経験を反映しより良いアイデアを伝達するため、2007年に浅海域制限作戦センター(COE CSW)をキールに設置し、2009年にNATOに公認される。
組織

海軍司令部
(ドイツ語版) 在ロストック - 海軍総監(中将)が率いている。2012年に艦隊司令部(在グリュックスブルク)と海軍局(在ロストック)を統合し、それまでの海軍指揮幕僚監部(在ボン)を置き換えた。



第1機動隊群キール

第2機動隊群ヴィルヘルムスハーフェン

第3海軍航空団 在ノルトホルツ

第5海軍航空団 在キール=ホルテナウ




任務

1956年の建軍以来、ドイツ連邦海軍は北海およびバルト海沿海域でのワルシャワ条約機構軍の侵攻を抑止することが主たる任務であった。しかし、東西ドイツ統一とヨーロッパにおける冷戦の終結は、その後の安全保障環境と国内世論の変化も相まってドイツ海軍の戦略を抜本から変革することが求められる事になる。

ドイツ海軍は連邦国防大臣により確立した防衛政策に則り、海軍は国家の安全保障政策に貢献する。1990年以降、連邦軍の任務はNATO域外に拡大し平和維持活動に参加する。主たる任務には以下の様なものがある。

国際テロとの戦いを含む国際紛争の予防と危機の解決。

同盟国の支援。

ドイツそのものとドイツ国民の保護。

救出と避難。

パートナーシップと協力。

民間への援助(公的支援、自然災害、特に重大事故)。

国外任務ドイツ海軍准将自衛隊海将補

冷戦末期の1987年にイラン・イラク戦争の余波により地中海へ艦艇を派遣し定期的に軍事行動を実施していた。初の海軍NATO域内派兵であったが加盟国間の共同防衛義務に基づく安全保障支援であった。東西再統一直後から国内では連邦軍の域外派遣について集中的な議論が始まった。これについては1990年8月2日のイラク軍のクウェート侵攻に端を発した湾岸危機とそれに引き続く湾岸戦争においてドイツ連邦軍の運用についての影響があった。これらの活動で統一間もないドイツ連邦海軍はかなりの分野で外国軍と関係していた。湾岸戦争にあってはドイツはアメリカ合衆国が連邦軍の派兵を求めたがドイツ連邦共和国基本法のほか、国際連合加盟後に形成されたNATO域外派兵に関する自主的規制に拘束され、戦争中には湾岸地域に軍隊を派遣せず総額172億独マルクの戦費を拠出し、トルコ空軍航空機を、地中海では出動した他の加盟国海軍の穴埋めで海軍が展開し(ズュートフランケ作戦)、戦後になってペルシャ湾に掃海艇を派遣したが、それでも日本と共に「小切手外交」と各国から激しく非難された[8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:58 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef