ドイツ民主共和国(ドイツみんしゅきょうわこく、ドイツ語: Deutsche Demokratische Republik; DDR)、通称東ドイツ(ひがしドイツ、ドイツ語: Ostdeutschland)または東独(とうどく)は、第二次世界大戦後の1949年10月にドイツのソ連占領地域に建国された国家である。
旧ドイツ国西部から南部にかけてのアメリカ・イギリス・フランス占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(西ドイツ)と共にドイツを二分した分断国家の一つ。1990年10月にドイツ連邦共和国に領土を編入される形で消滅した。 ドイツ民主共和国は社会主義国を標榜していた[1]。政治体制はソ連型社会主義で典型的な一党制ではなく反ファシズムを最大公約とした複数政党による議会制民主主義国(人民民主主義)の形態を採っていたが、実際はドイツ社会主義統一党 (SED) が寡頭政治政党として指導権を有していた[2]。SED以外に4つの政党が存在を許されていたが、衛星政党としての性格が強かった(ヘゲモニー政党制)。多数のソビエト連邦軍が駐屯する冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソ連の衛星国であった。 経済では第二次世界大戦の被害と、ソ連による賠償の取り立てを乗り越え、1970年代までは中央・東ヨーロッパの社会主義諸国の中で最も発展していた。一般家庭への自家用車の普及は進まず、常用された電化製品も西側のものに比べ旧式であったが、テレビでは多数のCMが流されるなど、共産圏では異例の消費社会に到達できた生活水準(中華人民共和国に返還される前の香港の一般庶民程度)を実現したと言われる。そういった事もあって「(東欧経済における)優等生[3][4]」「東欧の日本[5]」とも呼ばれていた。西側への流出で深刻になった労働力不足を補うという側面もあったものの、女性の社会進出も進んでおり、人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人の割合が女性で占められていた。 しかし、秘密警察である国家保安省(シュタージ)による国民の監視が徹底され、言論や表現の自由は制限されていた[注 1]。シュタージは職場や家庭内に非公式協力者 (IM) を配置し、相互監視の網を張り巡らせた[注 2]。また、一定期間無職でいると逮捕され(失業罪)、職種選択権が無い強制労働が科せられた。 1970年代以降は公共投資が進み、日本企業も積極的に進出し、「社会主義のショーウィンドウ」であった東ベルリンには高層ビルも建築され、生活水準もある程度上昇していたが、西ドイツには大きく水をあけられ、消費資材などの供給が少なく、重化学工業生産が優先されていた。例えば、自動車は申し込んでから7?8年以上待たないと納車されなかった上に、一部ソ連車などを除き輸入車は事実上入手が不可能であった。一方、経済成長に偏向し過ぎたため、深刻な環境問題などを引き起こすことになった。 1980年代には、裁判において陪審員制度も導入され、体制への不満に対するガス抜きとしての役割を果たしていた。また、国家人民軍における徴兵制導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールするために良心的兵役拒否が法的に認められ、代替役務が制度化されていた。1987年には死刑を廃止した。 第二次世界大戦での敗戦とそれに伴うドイツ国の滅亡により、ドイツは米・英・仏・ソの四か国による占領下に置かれた。しかし、戦後の冷戦構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は早々に困難になっていった。1948年より行われた米・英・仏の占領地域による通貨改革
概要
歴史
概要