1971年にエーリッヒ・ホーネッカーが指導者になり、経済政策と社会政策の両立(ドイツ語版)というスローガンのもとで、国家への不満を解消するために莫大な助成金を宣伝し、国際競争力を高めることよりも、国民の消費需要を満たすことに最大限の注意を払った。その結果、事実上1970年以降の物不足は解消し、新しい政策路線は肯定的に評価された。なお前任者のウルブリヒトは、ホーネッカーの経済戦略を批判し、「青くて未熟な共産主義者」と罵倒した[11]。急激に高まる消費を賄うために、ホーネッカーは国家予算(ドイツ語版)における設備投資額の割合を縮減した。設備投資に対する資本蓄積の割合は、1970年には16.1%だったのが、1988年には9.9%にまで減少している[12]。このことは、最終的に東ドイツの経済停滞を招いた破滅的な決定ミスであったと証明されている[13]。
また、1972年に国営化キャンペーンが始まると、民間の経済活動は、肉屋や家具屋のような小規模なものしか残らないようないようになり、従業員数も10人にまで制限された。そのうえ、物資の供給、税や法の面でも不利に扱われ、成功の見込みはあまりないと思われた[14]。
他の産業部門への設備投資はひどく放置された一方[15]、マイクロエレクトロニクス技術のような一大プロジェクトには投資が集中した。「自給自足のマイクロエレクトロニクス産業を構築する以外の選択肢は東ドイツにはなかった。先進的な産業国グループのなかで首位を堅持することが望まれていたのである」[16]。ドイツ社会主義統一党 (SED) は、電子部品・コンピュータ産業を発達させる際、リバースエンジニアリング戦略、つまりシュタージによる諜報活動を広範囲に投入して技術不足を解決しようとした。「この戦略では、世界の主要な製造国になるための遅れを取り戻すことは出来なかったが、その差を縮めることはできた。しかし最終的には、競合相手の製品をコピーする技術だけでは、急激な発展には対応できなかった」[16]。
商品の供給は、相変わらず不満足な水準にとどまっていた。技術のイノベーションや道徳意識の変化(例えばその頃から出現した環境意識)は考慮されなかった。硬直した経済は、国民を不安定にしただけでなく、80年代にはいわゆるシューラー・レポート(ドイツ語版)が裏付けたように、社会主義統一党自身でさえ不安定にした[12]。ホーネッカーが輸出能力を疎かにしたので、輸入額はもはや輸出額を大きく上回った。極秘扱いのシューラー・ペーパーで負債額が見積もられたが、その際、それが秘密行動であるという理由から、東ドイツ貿易調整部(ドイツ語版)がもつ外国貿易資産は顧慮されず、その結果実際にあった負債額よりもかなりの大きな額が想定されることとなった[17]。このことは、シューラー自身も後の出版で証明している[18]。非社会主義経済圏に対する実質の対外債務は、199億ドイツマルクである[19]。外貨流動資産は、1989年には国際決済銀行とドイツ連邦銀行の支払い後にも、事実上は残っていた[20]。社会主義経済圏に対して東ドイツは1989年、60億ドイツマルクの純資産を持っていた[21]。