ドイツ国大統領
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憲法43条は大統領の任期を7年とし、再選可能としていた[11][13][14]。また、議会が持つ大統領の弾劾権と大統領罷免のための国民投票発議権によって、大統領を罷免することが可能な規定になっていた。

なおエーベルトは憲法制定前に制憲国民議会から暫定的に大統領に選出されたため、ヴァイマル憲法の定めるドイツ国民からの選出を受けていないが、憲法180条によって次の大統領選挙までエーベルトが大統領職に在職することが認められていた[15]。エーベルト自身は1920年6月以降国民による大統領選挙の実施を希望していたが、内外の事情がそれを許さず、最終的にシレジアでの紛争が終わった1922年になってエーベルトの任期を1925年6月30日までとする憲法180条の改正(ドイツ語版)が行われた[16]

しかしこの任期切れ前の1925年2月28日にエーベルトが死去した[13][12]。これによりヴァイマル憲法に則った初めての国民直接投票による大統領選挙が行われることとなった[17]3月29日に大統領選挙が行われたが、過半数を獲得した候補はいなかった[18][19]。そのため4月26日に第二次選挙が行われ、パウル・フォン・ヒンデンブルクが僅差でヴィルヘルム・マルクスを破って大統領に当選した(1925年ドイツ大統領選挙[20][21][22]

ヒンデンブルクの7年の任期満了に伴う1932年の大統領選挙にはナチ党党首アドルフ・ヒトラーが出馬していた。3月13日の選挙の結果、再選を目指すヒンデンブルクが最多得票したが、得票率49.6%とわずかに過半数に届かなかった[23][24]。そのため4月10日に二度目の選挙があり、この選挙で53%の得票率を得たヒンデンブルクが再選した(1932年ドイツ大統領選挙[25][26][27]
大統領の代行

憲法51条は任期期間中に大統領が任務遂行不可能となった場合には首相がこれを代行し、その期間が長くなり得る際に法律の定めるところによって代行を擁立すると定めていた[28]

1925年2月28日にエーベルトが大統領の任期切れ直前(1925年6月30日)に死去したため、まずは憲法51条の規定に基づいてハンス・ルター首相が代行を務めることになった。その後、ルターの代行期間が長くなり得ることが確実視されたため、同年3月10日国会で大統領代行に関する特例法が採択され、ヴァルター・ジモンス帝国最高裁判所長官が大統領代行に就任した[13]

ヒンデンブルクの時代に国会の第一党となったナチ党はこれを恒常化すべきであるとして憲法改正を提案し、1932年12月17日に憲法改正条項である憲法76条[# 1]に基づいて憲法51条の規定が法律で修正され、大統領が職務を執れない場合は最高裁判所長官が大統領職を代行すると規定された。ナチ党がこの憲法修正を行わせたのは、当時のクルト・フォン・シュライヒャー首相が大統領を兼務することを阻止するためだったという[30]
大統領の権限

大統領は憲法24条により国会召集権、また25条により国会解散権を有した[31]。ただし解散権が濫用されないよう同一案件での解散は1回のみに限定されていた[32]。しかしこの規定に罰則はなく、もし違反して解散総選挙を行ってもその選挙は有効とされていた[33]。憲法25条により総選挙は解散後60日以内に行わねばならなかったが、政治的混乱が多かったヴァイマル共和政時代においてはこの規定は政府が2カ月の間国会から自由になれるという意味があった[33]国軍を閲兵する最高司令官フリードリヒ・エーベルト大統領(1923年8月 ベルリン)

憲法45条により大統領は国際法上ドイツ国を代表し、諸外国と条約を結び、また、諸外国使節の認証や接受を行うとされていた[34][35][36]。憲法46条は法律に別個定めがある場合を除き大統領に官吏・将校の任免権を認めている[34]。さらに憲法47条は大統領に国軍最高指揮権を認めている[34]

憲法48条の第1項では州政府が憲法の義務を果たさない場合は大統領は武力をもって州政府に対して義務を履行させることができると定めており、第2項では公共の秩序が阻害または危機にある場合にも武力を含めた必要な処置を執ることが認められており、その際に基本的人権に関する一定の条項につき一時的に効力を停止することを認めていた。ただしこれらの処置を行った場合は国会に遅滞なく報告せねばならず、国会の要求があればその処置は停止されるとも定められていた[34][14][36]

この非常時の強力な大権によりヴァイマル憲法のドイツ大統領は「代理皇帝(Ersatzkaiser)」とも呼ばれていた[36]。大統領にこのような権限が認められたのは憲法を創案したフーゴ・プロイスマックス・ウェーバーらが議会政治に慣れていないドイツ人が完全なる議会政治の中に投げ込まれれば混乱に陥ると考えたためだった[37]。しかし、結局はこの憲法48条第2項が後に拡大解釈されて大統領内閣の道を開き、事実上議会政治が終焉してしまった[36][37]

憲法53条は大統領に政府の議長たる首相の任免権を認めていた(閣僚は首相の提案に従って任免)。首相の任命にあたって国会が関与できるのかどうかは議論のあるところだったが、54条は政府は国会の信任を必要とし、不信任を受けた場合は退陣しなければならない旨を定めていたため、結局は首相の任命にあたっても国会が影響を及ぼすことになった[38]。実際的な運用としては事前に大統領が国会の各会派と協議を行ったが、それは徐々に各党への圧力という形に変化していった[39]。しかし、それは政府が強かったというよりもむしろ国会の弱さが原因であった。国会議員の選挙制度が比例代表制だったため[40]、国会は常に多数派が安定せず、首相選定にあたって安定した首相候補を推せる立場になかった[41]


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