ドイツ国大統領
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さらに同党の共同党首フィリップ・シャイデマンが王党派だったエーベルトに独断で共和国宣言を行うに至った[1][2]

1919年1月19日制憲国民議会選挙が行われ、2月6日に制憲国民議会がヴァイマルに召集された[3]2月10日にそこで臨時憲法にあたる暫定国家権力法(ドイツ語版)が採択され、この中で初めてドイツ国大統領(Reichsprasident)の存在が規定された[4][5]。その翌日にエーベルトが制憲国民議会議員の投票によって大統領に選出(ドイツ語版、英語版)された[6][3][7]

暫定国家権力法の大統領には憲法とそれに基づく政府が設立されるまでの間、担当閣僚の副署を得たうえで政令を発する任務が与えられていた[8]
ヴァイマル共和政のドイツ国大統領

1919年7月31日ヴァイマル憲法 (WRV: Weimarer Reichsverfassung) が制憲国民議会で採択された[9][10]。同憲法においてドイツ国大統領は第3章「大統領及び政府」(41条から59条)を中心に規定されている[11]
大統領の選出1932年の大統領選挙における選挙活動の様子。

ヴァイマル憲法41条はドイツ国大統領の被選挙権を35歳以上の全ドイツ国民に認め、大統領は全ドイツ国民から選出されると定めていた。細かい選挙制度は法律によって定めるとしており、大統領選挙法によってそれが規定されていた[11][12]。同法は最初の投票では当選には過半数の得票が必要であり、この投票で過半数を得票した候補がいない場合には第2次投票が行われ、最多得票者を当選者とするとしていた。また第2次投票の出馬のために第1次投票に出馬している必要はないとしていた[12]

憲法43条は大統領の任期を7年とし、再選可能としていた[11][13][14]。また、議会が持つ大統領の弾劾権と大統領罷免のための国民投票発議権によって、大統領を罷免することが可能な規定になっていた。

なおエーベルトは憲法制定前に制憲国民議会から暫定的に大統領に選出されたため、ヴァイマル憲法の定めるドイツ国民からの選出を受けていないが、憲法180条によって次の大統領選挙までエーベルトが大統領職に在職することが認められていた[15]。エーベルト自身は1920年6月以降国民による大統領選挙の実施を希望していたが、内外の事情がそれを許さず、最終的にシレジアでの紛争が終わった1922年になってエーベルトの任期を1925年6月30日までとする憲法180条の改正(ドイツ語版)が行われた[16]

しかしこの任期切れ前の1925年2月28日にエーベルトが死去した[13][12]。これによりヴァイマル憲法に則った初めての国民直接投票による大統領選挙が行われることとなった[17]3月29日に大統領選挙が行われたが、過半数を獲得した候補はいなかった[18][19]。そのため4月26日に第二次選挙が行われ、パウル・フォン・ヒンデンブルクが僅差でヴィルヘルム・マルクスを破って大統領に当選した(1925年ドイツ大統領選挙[20][21][22]

ヒンデンブルクの7年の任期満了に伴う1932年の大統領選挙にはナチ党党首アドルフ・ヒトラーが出馬していた。3月13日の選挙の結果、再選を目指すヒンデンブルクが最多得票したが、得票率49.6%とわずかに過半数に届かなかった[23][24]。そのため4月10日に二度目の選挙があり、この選挙で53%の得票率を得たヒンデンブルクが再選した(1932年ドイツ大統領選挙[25][26][27]
大統領の代行

憲法51条は任期期間中に大統領が任務遂行不可能となった場合には首相がこれを代行し、その期間が長くなり得る際に法律の定めるところによって代行を擁立すると定めていた[28]

1925年2月28日にエーベルトが大統領の任期切れ直前(1925年6月30日)に死去したため、まずは憲法51条の規定に基づいてハンス・ルター首相が代行を務めることになった。その後、ルターの代行期間が長くなり得ることが確実視されたため、同年3月10日国会で大統領代行に関する特例法が採択され、ヴァルター・ジモンス帝国最高裁判所長官が大統領代行に就任した[13]

ヒンデンブルクの時代に国会の第一党となったナチ党はこれを恒常化すべきであるとして憲法改正を提案し、1932年12月17日に憲法改正条項である憲法76条[# 1]に基づいて憲法51条の規定が法律で修正され、大統領が職務を執れない場合は最高裁判所長官が大統領職を代行すると規定された。ナチ党がこの憲法修正を行わせたのは、当時のクルト・フォン・シュライヒャー首相が大統領を兼務することを阻止するためだったという[30]
大統領の権限

大統領は憲法24条により国会召集権、また25条により国会解散権を有した[31]。ただし解散権が濫用されないよう同一案件での解散は1回のみに限定されていた[32]。しかしこの規定に罰則はなく、もし違反して解散総選挙を行ってもその選挙は有効とされていた[33]。憲法25条により総選挙は解散後60日以内に行わねばならなかったが、政治的混乱が多かったヴァイマル共和政時代においてはこの規定は政府が2カ月の間国会から自由になれるという意味があった[33]国軍を閲兵する最高司令官フリードリヒ・エーベルト大統領(1923年8月 ベルリン)


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