ドイツ共産党
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党員・党友数360,000人[1](1932年11月時)
政治的思想・立場共産主義(マルクス・レーニン主義スターリン主義)[2]
極左[3]/急進左翼[4]
プロレタリア独裁[5]
民主集中制[6]
反資本主義[7]
社会民主主義[8]
反ファシズム[8]
ヴァイマル共和政[9]
ヴェルサイユ条約[10]
機関紙ローテ・ファーネ(ドイツ語版)
シンボル党旗党旗の裏面
公式カラー
国際組織コミンテルン
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ドイツ共産党(ドイツきょうさんとう、ドイツ語: Kommunistische Partei Deutschlands  発音[ヘルプ/ファイル]、略称:KPD(カー・ペー・デー))は、かつて存在したドイツ共産主義政党第一次世界大戦中の非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。ドイツ革命直後の頃に結党され、ヴァイマル共和政期に国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)とドイツ社会民主党(SPD)に次ぐ第三党まで上り詰めたが、1933年ナチ党が政権を獲得すると、国会議事堂放火事件を口実に活動を禁止された。第二次世界大戦後に西ドイツでも東ドイツでも再興したが、西ドイツでは1956年戦う民主主義を理由に再び活動を禁止され、東ドイツでは1946年に社民党を強制合併してドイツ社会主義統一党(SED)となり、東欧革命で倒されるまで一党独裁制を敷いた。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
概要

第一次世界大戦中、ドイツ社会民主党(SPD)の戦争支持の方針に反発した急進左派カール・リープクネヒトローザ・ルクセンブルクらが創設した非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。ドイツ革命でスパルタクス団指導者たちが釈放されるとスパルタクス団は十月革命に倣った革命扇動を開始したが、反革命化を強めていた社民党政権と対立を深めた(→前史)。1918年12月30日から1919年1月1日にかけての創立大会で「ドイツ共産党・スパルタクス団」を結成し、直後の1919年1月にスパルタクス団蜂起を起こすも社民党政権が出動させた義勇軍に殲滅されて失敗(→ドイツ共産党の創設、→スパルタクス団蜂起(1月蜂起))。

リープクネヒトとルクセンブルクが義勇軍に虐殺されたので、代わってパウル・レヴィが党の指導者となる。1919年にはコミンテルンに加盟し、1920年7月にはコミンテルン参加に賛成するドイツ独立社会民主党(USPD)左派と合同してドイツ統一共産党(ドイツ語版)(VKPD)と改名した(翌1921年に「ドイツ共産党」の党名に戻る)。蜂起失敗の反省からレヴィは一揆主義者の追放を断行し、社民党や労働組合の中の反指導部層との共闘を図るという「統一戦線戦術」を推し進めたが、コミンテルンの方針に異を唱えたことからコミンテルンの不興を買って1921年2月に失脚した(→レヴィ体制、→コミンテルン参加、→独立社民党左派の合流、→「統一戦線戦術」、→レヴィ失脚とブランドラー体制成立)。

代わってハインリヒ・ブランドラー(ドイツ語版)が党の指導者となる。1921年3月、ソ連の国内事情からドイツ革命を欲したコミンテルンの指示を受けてマンスフェルトで武装蜂起(ドイツ語版)を起こしたが、中央政府が派遣してきた軍に鎮圧されて失敗した(→1921年3月闘争の失敗)。

その後コミンテルンの方針変換を受けて、1921年8月の党大会で再び「統一戦線戦術」へ復帰したが、1923年のハイパーインフレーションで生活困窮した労働者が急進化する中、その受け皿となるチャンスを逃しかねない「統一戦線戦術」への批判が党内左派から噴出。1923年秋にはコミンテルンが再び暴力革命路線へ転じたため、ブランドラーは1923年10月に「統一戦線戦術」に基づいてザクセン州テューリンゲン州の社民党左派の政権に共産党員を入閣させつつ、そこを拠点に革命軍事行動を開始しようとしたが、中央政府が送ってきた軍に鎮圧されて失敗(→「統一戦線戦術」の復活、→1923年10月の蜂起計画の失敗)。

この10月敗北の責任はブランドラーの「統一戦線戦術」に帰せられ、ブランドラーは失脚。代わってルート・フィッシャーやアルカディ・マズロー(ドイツ語版)など党内左派を中心とする指導部が発足した。しかしまもなくソ連ヨシフ・スターリンが左派レフ・トロツキーとの闘争を開始した関係で1925年にコミンテルンは再び「統一戦線戦術」に回帰。フィッシャーやマズローはコミンテルン方針に従ったものの、スターリンから忠誠を疑われて1925年秋に失脚した(→ブランドラー失脚と左派指導部の成立、→左派指導部と極左派の対立)。

代わってスターリンに忠実な親コミンテルン左派エルンスト・テールマンが党の指導者となった。テールマンははじめ中間派と指導部を形成して左派反対派を抑え込んだが、1928年になると左派政敵を始末したスターリンがブハーリン右派政敵との闘争を開始したため、コミンテルンが再び左旋回。スターリンとテールマンは党内右派を粛清していき、1929年6月の党大会までには党のスターリン主義化を完成させ、もはやいかなる反対派も党内に存在する事は許されなくなった。また党の極左化で「社会ファシズム論」に基づく社民党排斥を強化するようになり、その闘争においては国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチス)とも共闘するようになった。社民党系のドイツ労働組合総同盟(ドイツ語版)(ADGB)への敵意も強め、その分裂を促して共産党系の革命的労働組合反対派(ドイツ語版)(RGO)を結成させた(→フィッシャー失脚とテールマン体制の成立、→党内派閥抗争激化、→テールマン個人独裁のスターリン主義政党へ、→「社会ファシズム論」とナチスとの共闘、→革命的労働組合反対派

1929年の世界恐慌以降、急速に支持を拡大させ、国会選挙でも勝利を続け、ナチスや社民党に次ぐ第三党の地位を確立したが、1933年1月にヒトラー内閣が成立すると禁止されて地下に潜った(→世界恐慌と共産党の台頭、→ナチス政権下)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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