ドイツ共産党
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しかしまもなくソ連ヨシフ・スターリンが左派レフ・トロツキーとの闘争を開始した関係で1925年にコミンテルンは再び「統一戦線戦術」に回帰。フィッシャーやマズローはコミンテルン方針に従ったものの、スターリンから忠誠を疑われて1925年秋に失脚した(→ブランドラー失脚と左派指導部の成立、→左派指導部と極左派の対立)。

代わってスターリンに忠実な親コミンテルン左派エルンスト・テールマンが党の指導者となった。テールマンははじめ中間派と指導部を形成して左派反対派を抑え込んだが、1928年になると左派政敵を始末したスターリンがブハーリン右派政敵との闘争を開始したため、コミンテルンが再び左旋回。スターリンとテールマンは党内右派を粛清していき、1929年6月の党大会までには党のスターリン主義化を完成させ、もはやいかなる反対派も党内に存在する事は許されなくなった。また党の極左化で「社会ファシズム論」に基づく社民党排斥を強化するようになり、その闘争においては国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチス)とも共闘するようになった。社民党系のドイツ労働組合総同盟(ドイツ語版)(ADGB)への敵意も強め、その分裂を促して共産党系の革命的労働組合反対派(ドイツ語版)(RGO)を結成させた(→フィッシャー失脚とテールマン体制の成立、→党内派閥抗争激化、→テールマン個人独裁のスターリン主義政党へ、→「社会ファシズム論」とナチスとの共闘、→革命的労働組合反対派

1929年の世界恐慌以降、急速に支持を拡大させ、国会選挙でも勝利を続け、ナチスや社民党に次ぐ第三党の地位を確立したが、1933年1月にヒトラー内閣が成立すると禁止されて地下に潜った(→世界恐慌と共産党の台頭、→ナチス政権下)。

第二次世界大戦後に一時復興したが、西ドイツにおいては1956年に「戦う民主主義」を理由に連邦憲法裁判所から禁止命令が出されて解散させられた。東ドイツにおいては、終戦後の1946年に社民党を強制合併して、東ドイツの独裁政党社会主義統一党(SED)となり、1989年の東欧革命で倒されるまで一党独裁体制を敷いた(→戦後)。
党史
前史
スパルタクス団

1914年8月1日ドイツロシアに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦した[11]ドイツ社会民主党(SPD)は党派争い停止(「城内平和」)を求める政府の呼びかけに応じて戦争を支持した[12]。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}スパルタクス団の指導者であるローザ・ルクセンブルク(左)とカール・リープクネヒト(右)

しかしこの戦争を「帝国主義戦争」と捉えていたローザ・ルクセンブルクカール・リープクネヒトフランツ・メーリングクララ・ツェトキンら党内の急進左派は反発し、1914年9月10日にもスイスで発行していた社民党系新聞紙上において党の戦争支持方針への公然たる反対声明を出した[13]。この社民党急進左派勢力がドイツ共産党の源流となる。

戦争が長期化する中、反戦思想は徐々に大衆に浸透しはじめた。その状況をエルンスト・マイヤーは次のように語っている。「食糧危機の増大、住民が兵役と軍需品工場での労働にますます激しく駆り立てられること、ブルジョワ的併合論者が厚かましく立ち現れるようになったことが、反対派のための有利な土壌を作り出した。非合法のビラがますます大量にばらまかれるようになった。ツィンマーヴァルト会議[注釈 1]のためにリープクネヒトが作った『城内平和でなく城内戦争を!』というスローガンは扇動的に大衆の中に染み込んでいった」[14]

反戦運動を行う非合法結社の創設を目指す急進左派勢力は、1916年1月1日にリープクネヒトの事務所に集まって全国協議会を開き、当時投獄されていたルクセンブルクが獄中からひそかに送った指針(戦争を支持したドイツ社民党、フランス社会党およびイギリス労働党は国際社会主義・労働者運動の裏切者であり、新しい労働者インターナショナルの創設が必要とする指針)を運動方針として採択するとともに『スパルタクス』という非合法書簡を発行することを決議した。


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