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ポーランドに組み込まれたドイツ東部から強制送還されたドイツ人の子供達(1948年8月)
第二次世界大戦後におけるドイツ人追放(だいにじせかいたいせんごにおけるドイツじんついほう)は、第二次世界大戦末期およびその後に、ナチス・ドイツの領土および占領地に以前から居住もしくは移住したドイツ人が、ソビエト連邦および東欧・中欧の反枢軸国政府によって国外追放された一連の出来事を指す。 第二次世界大戦後のポーランド、チェコスロバキアなどの東欧国家や、それらに併合された旧ドイツ東部領土からのドイツ人の移住計画は大戦中から連合国間で協議され、ドイツ人の支配が終焉した地域から徐々に開始されていた。この措置はポツダム会談によって承認され、「秩序ある人道的な方法」で行われることとされた。実際は1943年から1945年にかけてソビエト連邦軍の進撃から逃れるために国境近くに居住する多くのドイツ人が西方へ自主的に避難を開始していた。戦後ドイツは国土の25%がポーランドとソ連へ割譲されたが、追放されたドイツ人に対し食料などを提供することはソ連やポーランド当局によって禁止された。その上、戦後の混乱によって発生した飢餓、病気、民兵による乱暴、復讐を目的とした殺人によって多くの人々が命を落とした。冬の寒さがそれに追い討ちを掛けた。このときの犠牲者数は50万人から200万人と推定されている。死因の内訳はいまだ不明である。 連合国が1990年代公開した資料によるとこれらの領域から追放もしくは自発的に移住したドイツ系の住民(追放者と難民)の総数は1,650万人に及び、20世紀の民族移動としては最大のものである。また、他に数100万人のポーランド人やウクライナ人も戦後にソ連に併合された旧ポーランド領からの移住を強制された。これらはすべて西側連合国とソ連の合意の下に行われた。 追放されたドイツ人(その中には戦争中にドイツ国籍を得た者もいる)の多くは、戦後ポーランド領に併合された旧ドイツ領の住民、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア(主にヴォイヴォディナ地方)に数十世代にわたって少数民族としてこれらの国家建設に寄与してきた人々であった。また、ドイツ人は旧ソ連に併合された東プロイセンの一部(ケーニヒスベルク)や、リトアニアその他の東ヨーロッパ諸国からも追放された。これらの東ヨーロッパ諸国もまた戦後に国境線を移動させられたが、ポーランドのように自国政府の意向を無視して強制的に大きく国土を移されたケースもあった。 戦争末期から東部国境地帯に居住する多くのドイツ人は進撃してくるソ連赤軍に対する恐怖心から避難を開始していた。逃げ遅れた者の中には戦争中に犯した非道行為によって処罰されたものもいたが、ほとんどはドイツ人であるがゆえに迫害された。 第二次世界大戦の勃発原因の一つであったナチス・ドイツによるチェコスロバキアに対するズデーテン地方要求やポーランドに対するポーランド回廊要求は、その地域に民族ドイツ人が多く存在していることが根拠とされていた。ミュンヘン会談後、チェコスロバキアはドイツによって事実上併合されたが、ドイツ人はチェコ人を劣等民族として扱い、国内や国外のチェコスロバキア独立組織はドイツ人に対する反感を強めていった。
概説
政策決定の経緯