ドイツ降伏が間近になった1945年、チェコスロバキアでは亡命政府が帰還したが影響力を十分に行使できない状態となった。国内は無法状態に陥り、統制されない暴力や殺戮、強制労働などが頻発し、「野蛮な追放」と呼ばれる統制されない追放も相次いだ[2]。一方でチェコスロバキア政府は同年2月頃からドイツ系住民の資産凍結や市民権停止など、一連の迫害的な政治命令を行っている(ベネシュ布告)[12]。またポーランドやハンガリーからもドイツ人の追放が相次いで行われていた。この状況を収拾するため、7月に開催されたポツダム会談ではこれらの国からのドイツ人追放を認める一方で、ドイツの占領を統括する連合国管理理事会(英語版)がドイツからの避難民を受け入れる条件作りを行うまで、追放を停止するよう呼びかけることが合意された[13]。チェコスロバキアはこの政策を承認し、1946年から本格的な移送を開始した[12]。 ドイツ人住民の秩序ある移送 これら3カ国(アメリカ、イギリス、ソヴィエト連邦)の政府は、諸般の情勢に鑑み、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーに残留するドイツ人住民やその社会集団のドイツへの移送が行われねばならないことを認識する。これら政府は、全ての移送措置が秩序ある人道的な方法で行われるべきことに合意する。連合国管理理事会は占領されたドイツの各州が、どの程度受け入れ可能であるかを調査する。ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーの各政府はこの調査が終了するまでドイツ人の追放を中断しなければならない。 以下に示すようなさまざまな理由が挙げられている。
ポツダム協定の第12項(1945年8月1日)
強制移住の理由
第二次世界大戦の期間における民族ドイツ人の行為(ナチス・ドイツ占領地域からのポーランド人やチェコ人追放を含む)に対する懲罰措置。同時に民族的に等質な国民国家を建設することにより、戦争に先駆けて発生したような民族対立の芽を摘み取る。
この強制移住の目的は、民族ドイツ人の東方への伸張を阻止することである。ドイツの民族主義者は過去において常に、他国におけるドイツ系少数民族の存在をその国に対する領土要求の根拠としてきた。アドルフ・ヒトラーはこれを侵略戦争の口実に利用した。他国の領土からドイツ人を排除することは将来の潜在的な問題を排除することと考えられる。
またナチズムの東方生存圏政策に基づき、ドイツ国民である帝国ドイツ人
ポツダム会談の参加国は、将来において民族間の暴力を避けるにはドイツ本国の国境外に居住する民族ドイツ人をドイツ本国に強制移住させるしかないと考えていた。ウィンストン・チャーチルは1944年に庶民院でこう述べた。「強制移住は、今まで考慮しうるもののうちでは最良の措置であり永続的なものである。常に繰り返される不幸を引き起こす他民族国家に居住する民族ドイツ人の混住状況はもはや存在しなくなる…完全な一掃が行われるのである。この移送に対して不安はない。これはむしろ現代の状況において可能なことなのである…」。このチャーチルの見解の立場をとると、強制移住はその目的を達したと考えられる。1945年に新たに設定された国境線は確固たるものであり、民族対立は殆どなくなった。しかし民族関係の安定は堅い鉄のカーテンによって説明されることでもある。なお、チャーチルは1946年の有名な「鉄のカーテン」演説でドイツ人強制移住を非難している。[14]
ドイツ本国外、特に東ヨーロッパ諸国に組織された民族ドイツ人団体は第五列として1939年のナチス・ドイツによるチェコスロヴァキア解体やポーランド侵攻を支援した。ズデーテンではズデーテン・ドイツ人