この特性および主張は、道徳やキリスト教的倫理から文学を解放し、やがて写実主義・自然主義へと継承された。フランチェスコ・アイエツ『オダリスク』(1867年、ブレラ美術館所蔵) ローマ帝国時代のラテン語には、文語としての古典ラテン語と口語としての俗ラテン語が存在したが、その差はさほど大きくなかった。しかし、衰退期に入ると文語と口語の差は徐々に広がり、やがて、ひとつの言語の変種とは呼べないほどにその違いは大きくなり、文語は、古典ラテン語の知識のない庶民には理解困難なほどにまでなった。対して、その時代の口語のほうをロマンス語と呼んだ。ロマンス語で書かれた文学作品はロマンスと呼ばれるようになり、ギリシャ・ローマ ロマンを「浪漫」という当て字で表記したのは夏目漱石であり、1907年の講義録『文学論
「ロマン」の語源
ロマンと浪漫
また、1911年には長野県会議事堂での講演で、「自然派」と共に自身が「浪漫主義」と當てたと回答している。さて一方文学を攷察して見まするにこれを大別してローマンチシズム、ナチュラリズムの二種類とすることが出来る、前者は適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きましたが、後者のナチュラリズムは自然派と称しております。 ? 夏目漱石、『教育と文芸――明治四十四年六月十八日長野県会議事院において――』
多くの和製漢語と共に中華圏で受容され、現在も中国語では「浪漫主義」の表現が用いられる。 文学では「ロマンティック (romantique)」という言葉を現在、その言葉に含蓄されているような意味合いで初めて使ったといわれるフランスのルソー(『孤独な散歩者の夢想
文学
フランスヴィクトル・ユゴージョルジュ・サンド
18世紀末のベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー(英語版)』やディドロの『ラモーの甥(英語版)』あるいはルソーの『新エロイーズ』、『告白』などにロマン主義の萌芽は見られた。19世紀に入ると、スタール夫人、バンジャマン・コンスタン、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、セナンクールといった初期ロマン派作家によって、現実認識および自我といった根源及び対象を持った本質的欲求の表現を通して、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の根本的独自性やそれを根源とした苦しみが明確な形をとって表現された。倦怠、不満、無力、自己満足、欲求不満と人に容れられぬという意識、こうした実存的不安、あるいはシャトーブリアンが「情熱の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼んだものは、それまでの教条主義では存在が否定され、啓蒙主義においてはその輝きの影に隠れたものであった。同時に、この自我の流謫と、他者に対する夢想の中で揺れ動く自我の称揚にロマン主義の基盤が据えられている。これらはナポレオン1世の第一帝政に対する文化的抵抗運動の中、文芸サロンやサークルの中で醸成された。また、ヴィクトル・ユゴーやその兄アベル・ユゴー(フランス語版)が属した「文学保守(フランス語版)」誌、あるいは「グローブ(フランス語版)」誌、「フランス精神」誌などを発表の根拠地としていた。1825年、ヴィクトル・ユゴーとシャトーブリアンが自由主義化することで、ロマン主義はより大きなうねりとなった。自由主義・個人主義・感情主義を柱とするロマン主義の確立は、それまでの教条主義・古典主義に対する個人の解放だけでなく、あらゆる専制に対する人間性の解放をも目指した。ユゴーは戯曲『エルナニ』の序文で「芸術における自由、社会における自由、これこそが筋が通り道理に適ったすべての精神が足並み揃えて目指さなければならない二重の目的である。