ドイツキリスト教民主同盟_(東ドイツ)
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しかし、ソ連占領区域でドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民主党(SPD)が合同しドイツ社会主義統一党(SED)が結成されるなどスターリン主義に基づく共産主義化が進むなか、1948年にカイザーがソ連占領区域から追放されると[1]、西側のCDUとの関係は切れ、オットー・ヌシュケ(ドイツ語版)の下で実質的に社会主義統一党主導の人民民主主義体制傘下の衛星政党となった。さらに、それでも農村部には独自の組織力を有していたCDUの勢力をそぐことを目的に、ソ連軍および社会主義統一党は1948年にわざわざドイツ民主農民党(DBD)を結成している。公式には1949年ドイツ民主共和国東ドイツ)建国後、1952年の党大会で社会主義(ここではマルクス・レーニン主義のこと)を受容した。

東ドイツにおいては、キリスト教民主同盟は人民議会の500議席中52議席を割り当てられ、形式的には勢力を保っていた。しかし、東ドイツ憲法では社会主義統一党が国家を指導することになっており、キリスト教民主同盟が当局や社会主義統一党の施策に反対することはほとんどなかった[2]。党首は国家評議会副議長となり、閣僚評議会副議長(副首相)を出すなど[3]、完全に体制内の政党となっていた。
ベルリンの壁崩壊から自由選挙での圧勝ロタール・デメジエール

1989年ポーランド民主化運動ハンガリー民主化運動の余波を受けて東欧革命の波が東ドイツに及ぶと、キリスト教民主同盟もその影響にさらされることとなった。東ドイツで民主化運動が盛り上がり、エーリッヒ・ホーネッカーが政権の座を追われ、ベルリンの壁が崩壊すると、ロタール・デメジエール党首となり、党は西側のキリスト教民主同盟にならって中道右派的なキリスト教民主主義に路線を転換、さらに早期の東西ドイツ再統一西ドイツ通貨であるドイツマルク導入を掲げた。これらの政策により、東ドイツ最初で最後の自由選挙となった1990年3月18日人民議会選挙では保守政党としてドイツ社会同盟(DSU)、民主主義の出発(DA)と保守政党連合である「ドイツ連合」(Allianz fur Deutschland)を組み圧勝、デメジエールが東ドイツ最後の首相に就任してドイツ再統一への道をつけた[4]
ドイツ再統一と西側の党への合流ザビーネ・ベルクマン=ポール(左)。右は西ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー

選挙後、党所属のザビーネ・ベルクマン=ポールが人民議会議長(暫定国家元首)となった。その後、民主主義の出発を合併したうえ[5]10月のドイツ再統一に際して西ドイツのキリスト教民主同盟に合流した。
歴代党首

1945 アンドレアス・ヘルメス(Andreas Hermes)

1946?1947 ヤーコブ・カイザー(Jakob Kaiser)

1948?1957 オットー・ヌシュケ(Otto Nuschke)

1958?1966 アウグスト・バッハ(August Bach)

1966?1989 ゲラルト・ゲッティング(Gerald Gotting)

1989 ヴォルフガング・ハイル(Wolfgang Heyl)

1989?1990
ロタール・デメジエール(Lothar de Maiziere)

脚注^ カイザーはのちに西ドイツ首相となるコンラート・アデナウアーに並ぶ理論家・指導者であり、アデナウアーの西側偏重・東西分裂促進的な政策に強く反対したが、ソ連軍により解任され、西側に追放された後、アデナウアー政権で全ドイツ問題相となる。
^ 東欧革命の波及以前では1972年3月9日妊娠中絶を認める法案の採決において反対票・棄権票を出したのが唯一の反対例である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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