ドイツの歴史
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また、カール大帝はアーヘン(現在のドイツ北西部)の宮廷にブリタニアの僧アルクィンを招いて古典古代ラテン語文化を復興させ(カロリング・ルネサンス)、古典文化、ローマ・カトリック、ゲルマン人の諸要素を加えた独自のヨーロッパ世界を築き上げた。
東フランク王国

843年-962年:詳細は「東フランク王国」を参照。ヴェルダン条約とメルセン条約

次代の王ルートヴィヒ1世(敬虔王)の死(840年)後、843年にヴェルダン条約が結ばれフランク王国は3人の息子に分割された。これにより、東フランク王国西フランク王国中フランク王国(イタリア王国)が成立した。その後、870年のメルセン条約によって中フランク王国の一部が東西フランク王国に再分割され、領土において現在のドイツフランスイタリアの原形が成立した。ただし、今日のようなドイツ人意識はまだ形成されていない。

911年カロリング朝断絶後、東フランク王国(ドイツ王国)は選挙王制へと移行し、10世紀初頭にザクセン朝が成立した。初代のハインリヒ1世は、北方でノルマン人を撃退、東方でマジャール人を撃退した西スラヴ人諸部族の西への進出を食い止めることに尽力し、ザクセン朝フランク王国の土台を築いた。当時、西フランク王国の王権は極めて弱体で、イタリア王国も事実上崩壊へと向かっており、東フランク王が事実上西欧世界の盟主となっていった。2代目のオットー1世(大帝)は、引き続き侵入する外民族の討伐で活躍し、とりわけマジャール人を955年にレヒフェルトの戦いで撃退した。その一方でまた、イタリア遠征を敢行して教皇位をめぐる混乱を収拾させた。
神聖ローマ帝国

962年-1806年:詳細は「神聖ローマ帝国」を参照。
「神聖ローマ帝国」の成立

これらの活躍を受けて、962年にローマ教皇ヨハネス12世がオットーにローマ皇帝の冠を授けた。いわゆる「オットーの戴冠」であり、これにより「神聖ローマ帝国」が成立したとされる(実際に「神聖ローマ帝国」という表現が史料上で現れるのは13世紀半ばである)。こうして、戴冠を受けた東フランク王オットー1世は、西ヨーロッパ世界における盟主としてその威光を高めた。また、このことによって教皇皇帝という聖俗両権の頂点を中心とした楕円的な権力構造が西ヨーロッパ世界に形成された。しかし、この段階でも現在のドイツという感覚は希薄であり、歴代の東フランク王(かつ、教皇から戴冠された皇帝)は、ドイツ支配にとどまらずキリスト教理念に基づく普遍的な帝国の樹立を目指していた。そして、教会組織を通じた帝国統治を図ったため(帝国教会政策)、帝国内における皇帝権力は徐々に強化されていった。この過程でオットー3世は東の国境地帯を悩ます西スラヴ人諸部族に対応するため、彼らの背後にある強力な西スラヴ人国家ポーランドボレスワフ1世と同盟を結び、1000年にはポーランドを公式訪問してグニェズノ大聖堂の参拝およびボレスワフ1世との首脳会談を行い、その際ボレスワフ1世に対し神聖ローマ帝国の貴族の称号を授けている。

現代では、当時の歴代皇帝がイタリア遠征を繰り返したためドイツの分裂が進んだという見解もみられる。これは、19世紀に入ってナショナリズムが高揚する中で(ドイツ人という民族意識が民衆に共有される時代において)、ドイツの民族的統一を主張する勢力が主に展開したものである。まだナショナリズムが形成されていない中世においては、逆にイタリア政策を通じて皇帝権が正統化され、ドイツ内の諸侯に威光を示し帝国統治が円滑に進むこともあった。
叙任権闘争

ザリエル朝の歴代皇帝も帝国教会政策を行い、皇帝権の強化を推し進めていった。一方で皇帝と結びついた教会組織も、土地の寄進などを通じて徐々に勢力を拡大させた。こうした中、教会組織が世俗権力の統制下におかれることを批判し、教会の純化を図る改革運動が、フランスのクリュニー修道院などで高まった。

歴代皇帝は真摯にキリスト教世界の指導者として振る舞い、実際には聖職叙任もおおむね適切なものであった。しかし、教会への影響力強化を図った教皇グレゴリウス7世は、世俗権力による聖職叙任自体を聖職売買とみなし、聖職叙任権を手中に収めようとしたのである。その点で、叙任権闘争は単なる宗教問題にとどまらず、いわば皇帝が育てた果実を教皇が摘み取ろうとした権力闘争としての性格も有した。カノッサの屈辱

叙任権闘争の趨勢を決める上で重要な役割を果たしたのは、ドイツ内における有力諸侯であった。皇帝権強化による自らの権力低下を懸念した諸侯は、皇帝を牽制するためローマ教皇の支持に回った。こうして皇帝の地位が脅かされたハインリヒ4世は、教皇に対する謝罪を余儀なくされる(カノッサの屈辱)。さらに十字軍運動も開始され、第1回十字軍の軍勢が聖地を奪ってエルサレム王国を建国し、ローマ教皇の威光がますます高まった。こうした中、ハインリヒ4世の息子で次帝のハインリヒ5世が、ローマ教皇とヴォルムス協約を結び、叙任権闘争はひとまず終結した。

この協約で皇帝は叙任権は失ったものの、教会財産を封じる権利は確保された。そのため、世俗君主としての皇帝権は、ほとんど揺らいでいない。しかしながら、長期に渡る教皇との対立によって、理念としての皇帝権が深く傷つけられたのであった。こうして皇帝権は弱体化していき、皇帝の統制が緩む中で各地の領邦君主が自らの所領支配の強化に専念しはじめた。のちの領邦国家体制の萌芽はこの頃に見いだされる。
ホーエンシュタウフェン朝と十字軍
ドイツ諸都市の発展と東方植民詳細は「北方十字軍」、「東方植民」、「バルト・ドイツ人」、および「ハンザ同盟」を参照





ゲルマン民族の大移動後、ドイツ人の居住地はエルベ川の西方に限定されていたが、封建制度が安定した12世紀から15世紀にかけて東方のスラブ人居住地への植民(東方植民)が活発に行われた。12世紀始めにはブランデンブルク辺境伯がおかれ、13世紀にはドイツ騎士団バルト海沿岸を征服した。この両者は1618年に合併してブランデンブルク=プロイセンとなった。同じ頃、商人と手工業者による中世都市がドイツ各地に築かれ、アーヘンケルンなど有力都市は皇帝から特許状をもらい帝国都市となった。13世紀には北ドイツの有力都市は相互の利益と防衛のためハンザ同盟を結成し、リューベックを盟主に最盛期には100を越える都市が参加した。
領邦国家体制の形成詳細は「大空位時代」および「金印勅書」を参照
近世
宗教改革ライプツィヒ論争宗教改革の中心人物であるマルティン・ルタールターはヴァルトブルク城の一室で新約聖書を翻訳した。詳細は「宗教改革」を参照

1517年、教会による贖宥状(免罪符)の販売に対して、ヴィッテンベルク大学神学部教授のマルティン・ルターが、95ヶ条の論題を示して批判を行った。まだ、この段階ではローマ教皇やカトリック教会そのものの批判にまでは至ることはなかったが、このルターの言動は大きな共感を持って受け入れられたため、ドイツ内に大きな波紋を生みだすことになった。


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