ドイツにおける1848年革命
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バーデンはドイツで最も自由主義的な地の1つとなっていたのである (de:Badischer Liberalismus) 。パリの二月革命の報が入ると、バーデンでは農民が領主の館を焼き討ちするなどの事件が散発した[10]

1848年2月27日、バーデンのマンハイム民衆集会が権利章典を要求する決議を採択した。同様の決議は、ヴュルテンベルクヘッセン=ダルムシュタットナッサウその他のドイツ諸邦でも採択された。これらの運動に対する民衆の圧倒的支持に押されて、支配層はこれらのいわゆる「三月要求」の多くをほぼ無抵抗で受け入れることとなった。
オーストリア詳細は「オーストリア帝国における1848年革命(ドイツ語版)」を参照メッテルニヒ亡命の風刺画(1848年3月)1848年3月15日のフェルディナント1世の憲法の約束

1848年当時、オーストリアはドイツ連邦の議長国であり、1806年にナポレオンに解体されて以来1815年のウィーン会議においても再興されることのなかった神聖ローマ帝国の継承国と見なされていた。1815年から1848年までオーストリアの政治は宰相メッテルニヒに牛耳られていた。

1848年3月13日、ウィーンにおいて学生が大規模な街頭デモを起こし、ドイツ語圏で報じられた。これに先立つ1848年2月9日、バイエルンにおいてローラ・モンテスに対するデモが行われていたが(後述)、これは先駆的ながら小規模な事件にすぎず、1848年のドイツにおける大規模な反乱はウィーン三月革命が最初となった[11]。デモを起こした学生は、大学礼拝堂において1848年3月12日の日曜日に行われた自由主義的な司祭のアントン・フュスター(ドイツ語版)による説教に触発されたもので[11]、男子普通選挙による憲法制定議会と憲法制定を要求した[12]

皇帝フェルディナント1世と宰相メッテルニヒは軍隊を導入してデモを鎮圧しようとしたが、デモ隊が宮殿近くの通りに進んだ時、軍隊が学生に発砲して数人の死者を出した[11]。ウィーンの新興労働者階層が学生に加勢してデモは武装反乱に発展し、下オーストリア州会議事堂においてメッテルニヒの辞任が要求された。メッテルニヒを擁護する勢力はなく、フェルディナント1世も不承不承メッテルニヒを解任した。メッテルニヒはロンドンに亡命した[13]

フェルディナント1世は自由主義色のある新内閣(コロヴラート=リープシュタインスキー(ドイツ語版)内閣)を組閣した。オーストリア政府は1848年4月末に憲法 (Verfassungsurkunde des osterreichischen Kaiserstaates, 通称ピラースドルフ憲法: Pillersdorfsche Verfassung) を発布したが[13]、大多数に選挙権を認めないものであったため、民衆はこれを拒否した。革命勢力の中央委員会 (de:Zentralkomitee) に対する解散命令への反発から、1848年5月15日に第二次ウィーン蜂起が起こり、フェルディナント1世は一家でインスブルックに避難して、忠誠心のあるチロルの農民に囲まれながら数か月をそこで過ごした[13](その後も混乱は続き、学生軍団(ドイツ語版)に対する解散命令への反発から、1848年5月26日から同27日にかけて、ウィーン市民は再び街頭に繰り出して、軍隊の攻撃に備えたバリケードを築いた)。

フェルディナント1世は1848年5月16日と1848年6月3日に2つの宣言を発表し、民衆への譲歩を宣言した。第一は憲法で設置を約束した帝国議会を民選の憲法制定帝国議会(英語版)に転換する宣言[14]、第二はドイツの統一と再編に取り組む宣言であるが、後者はあまり具体的ではなく一般的な宣言にとどまった[13]
プロイセン詳細は「バリケード蜂起(ドイツ語版)」を参照アレクサンダー広場の市街戦(1848年3月18日)ベルリン市内のバリケード戦に参加する少年兵

1848年3月6日、ベルリンにおける最初の暴動が起こり、プロイセンにおける三月革命が始まった。3月13日、軍隊がティーアガルテンの集会から戻った民衆と衝突し、1人目の死者と多数の負傷者を出すこととなった。

3月18日、群衆が「国王に対する請願」 (Adresse an den Konig) の形でその要求を提出するためベルリン市内で集合し、大規模なデモが行われた。ベルリン王宮前に押しかけられた国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、連合州議会(ドイツ語版)の召集、憲法、出版の自由を含むデモ隊の全要求に譲歩する勅令を発した。しかし、2発の銃声が鳴り、群衆は2万人の兵士の側から狙撃されたものと恐れてバリケードを築いた。市街戦が始まり、13時間後に軍隊が撤退を命じられるまで続いて数百人の死者を出すこととなった。3月19日、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は新内閣(アルニム=ボイツェンブルク(ドイツ語版)暫定内閣、3月29日にカンプハウゼン内閣に交代)を組閣して社会不安の払拭を図り、市民の武装も承認した。

3月20日、当時プロイセンの支配下に置かれていた旧ポーランド領において反乱を計画した疑いで投獄されていたポーランド人の囚人が釈放されてベルリン市中の行進を行い、民衆から歓呼で迎えられた。3月21日、国王は大臣や将軍とともに黒・赤・金の革命の三色の記章を身に着けて市中の行進を行い、「プロイセンは今後ドイツに昇華する」 (Preusen geht fortan in Deutschland auf) と約束した。3月22日、市街戦で犠牲となった市民のためにフリードリヒスハイン共同墓地において集団葬儀が行われた。市街戦の死者254人がジャンダルメンマルクト棺台の上に安置され、約4万人がフリードリヒスハイン(ドイツ語版)の墓地まで葬送を行い、国王も死者に頭を下げた。

1848年5月22日、ベルリンでフランクフルト国民議会とは別の民選議会が初めて開会した[15]。選挙は、連合州議会により制定された普通選挙・二段階間接選挙の投票方法を容認する1848年4月8日の選挙法 (Wahlgesetz fur die zur Vereinbarung der Preusischen Staatsverfassung zu berufende Versammlung vom 8. April 1848) に基づき[15]、5月1日、フランクフルト国民議会の選挙と同時に行われた。同議会はプロイセン国民議会(ドイツ語版)と呼ばれ、議員の多くはブルジョワジーないし自由主義的な官僚であった。同議会の任務は「国王との協定により」 (durch Vereinbarung mit der Krone) 憲法を制定することであった[15]
ヴィエルコポルスカ詳細は「ヴィエルコポルスカ蜂起 (1848年)(ドイツ語版)」を参照

ヴィエルコポルスカ(大ポーランド)は厳密にはドイツ諸邦ではないが、おおよそ対応した領域はポズナン大公国として、18世紀末の第1次・第2次ポーランド分割以降プロイセンの支配下に置かれていた。1848年ヴィエルコポルスカ蜂起(ポズナン蜂起とも呼ばれる)が1848年3月20日に始まり、プロイセン軍に対してルドヴィク・ミエロスワフスキ(ドイツ語版)率いるポーランド人部隊が反乱を起こしたが失敗に終わり、プロイセンはヴィエルコポルスカ地方をポーゼン州(ドイツ語版)として併合することとなった。
バイエルン

バイエルンでは、国王ルートヴィヒ1世が、貴族も教会も好まざるところの踊子で女優のローラ・モンテスを公妾として寵愛し、その開かれた関係のために名声を失っていた[16]。ローラ・モンテスはプロテスタントの首相エッティンゲン=ヴァラーシュタイン(ドイツ語版)を通じて自由主義的改革を始めようとし、国内のカトリックの保守派を憤慨させた。2月9日、保守派は街頭で抗議の声を上げた。この1848年2月9日のデモは革命の年に起こった最初の事件であったが、自由主義的抗議運動の第一波ではなかった。保守派はローラ・モンテスの放逐を望み、その他の政治的指針をもたなかった。自由主義的な学生はローラ・モンテス事件を利用して政治的変革のための要求を鼓舞した[16]。他の諸都市において学生がしていたのと同様に、バイエルンのあちこちで学生が立憲的改革を求めるデモを行った。

ルートヴィヒ1世は新内閣(ヴァルトキルヒ(ドイツ語版)内閣)を組閣するなど若干の改革を実施したが、抗議の嵐を鎮めるのには不十分であった。1848年3月16日にローラ・モンテスの再入国に対する暴動が起こり、3月20日にルートヴィヒ1世は長男のマクシミリアン2世に譲位した[16]。ルートヴィヒ1世は「私はもはや統治できなかったが、私は加判人(王太子)を差し出したくなかった。奴隷にならないためにも、私はフライヘル(下級貴族、自由身分)になったのだ。」 (Regieren konnte ich nicht mehr, und einen Unterschreiber abgeben wollte ich nicht. Nicht Sklave zu werden, wurde ich Freiherr.) とこぼした。1848年革命で退位したドイツの領邦君主はルートヴィヒ1世のみである。多少の民衆的な改革は取り入れられたが、政府は支配権を完全に取り戻した[17]


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