ドイツと連合国の休戦協定_(第一次世界大戦)
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ドイツは2、3の不可能な要求(例えば、彼らの艦隊が保有する以上の数の潜水艦を廃棄することなど)を修正し、また連合国軍の条件の過酷さに対する公式な抗議を記録させることができたが、署名を拒否できる立場にはなかった。11月10日の日曜日に、彼らはパリから届いた新聞を見せられ、前日に皇帝ヴィルヘルム2世ベルギースパからオランダに逃亡し退位したことを知らされた。

マティアス・エルツベルガーは政府の崩壊によりベルリンからの指示が得られなくなったが、ベルギーのスパにいたドイツ軍参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルクと連絡することができた。ヒンデンブルクは彼に、戦争継続は不可能であり、どんな代償を払ってでも休戦協定に署名するように命じた。署名はパリ時間の午前5時12分から午前5時20分にかけて、コンピエーニュの森に引き込まれた食堂車2419D(「休戦の客車("Le Wagon de l'Armistice")」)でなされた。
主要人物

連合国軍側

フランス軍元帥フェルディナン・フォッシュ(連合軍最高司令官)

イギリス第一海軍卿ロスリン・ウェミス提督(イギリス代表)

マキシム・ウェイガン将軍(フォッシュの参謀長)

ドイツ政府・軍側

マティアス・エルツベルガー(文民政治家)

アルフレート・フォン・オーベルンドルフ伯爵(外務省)

デトレフ・フォン・ヴィンターフェルト少将(陸軍)

エルンスト・ファンゼロウ大佐(海軍)

ウェイガン将軍とフォン・グレンネル将軍は(フランスの)文書には言及されていない。
取り決め

協定には次のような重要項目が含まれていた[1]

署名後6時間以内の交戦の終了。

フランス、ベルギー、ルクセンブルクアルザス=ロレーヌからの全ドイツ軍部隊の即時撤退。

上に引き続き、ライン川左岸全域と、右岸のマインツコブレンツおよびケルンの連合国軍・アメリカ軍の占領を保証するため、その橋頭堡の半径30km区域からドイツ軍部隊を移動させること。

東部戦線における全てのドイツ軍部隊の1914年8月1日時点の位置への退去。

ロシアとのブレスト=リトフスク条約、およびルーマニアとのブカレスト条約の破棄。

ドイツ艦隊の抑留。

Uボートの降伏。

軍需品の引き渡し(大砲5,000門、機関銃25,000挺、ミーネンヴェルファー3,000門、飛行機1,700機、機関車5,000両と客貨車150,000両)。

その後

停戦期間は33日間とされていたため、12月には一回目の期限延長が行われ、1919年1月13日までの延長が行われた。2回目の停戦延長は2月17日が期限であり、3回目の停戦延長はパリ講和会議の最中で行われた[2]。フランス側はこの機会を通じてドイツの休戦協定違反を指摘し、停戦条件を修正しようともくろんだが、ウィルソン大統領の強い反対によって受け入れられなかった[3]。5月にはヴェルサイユ条約がドイツ側に提示されたが、三首脳(ウィルソン、デビッド・ロイド・ジョージ英首相、ジョルジュ・クレマンソー仏首相)は調印拒否が行われた場合には再度戦争を開始することを合意していた[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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