トーマス・マン
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翌年10月に出版されると広く読者を集め、第一次大戦前までにはデンマーク語スウェーデン語オランダ語チェコ語に訳されるベストセラーとなった。『ブッデンブローク家の人々』はその後1929年にノーベル文学賞を与えられた際に受賞理由として挙げられている。1903年代表作の一つ『トーニオ・クレーガー』発表。

1905年ミュンヘン大学に務めるユダヤ系数学教授の娘で当時学生だったカタリーナ・プリングスハイム(愛称カティア Katia またはカトヤ Katja)と結婚。その後彼女との間にエーリカ(de:Erika Mann)、クラウス(作家)、ゴーロ(de:Golo Mann、歴史家)、モーニカ(de:Monika Mann)、エリーザベト(de:Elisabeth Mann、ピアニスト)、ミヒャエル (de:Michael Mann、ヴァイオリニスト)の6子をもうけた。マンは朝9時から3時間を執筆時間に当て、マン家ではこの3時間を「魔術師の時間」と呼び静寂を保つように務めたという。

1910年、ミュンヘンでグスタフ・マーラーの『交響曲第8番』初演を聴き、マーラー自身と知り合う。翌年、マーラーが死去した直後にヴェネチアを旅行。1912年にマーラーの死に触発されて書かれた中編『ヴェニスに死す』を発表する。
第一次大戦前後

1912年、夫人カタリーナが肺病を患ったためスイスのダヴォスにあるサナトリウムで半年間の療養生活を送った。この年の夏見舞いに訪れたマンは、夫人から聞いた体験や挿話を元に小説を書くことを思い立つ。当初短編小説のつもりだったその作品はその後12年の間書き続けられたのち『魔の山』として発表されることになった。

1914年第一次世界大戦が勃発。マンはこの大戦を文明に対する文化としてのドイツの戦いと位置づけてドイツを積極的に擁護したが、この立場はロマン・ロランや実の兄ハインリヒ・マンから批判を受け、一時兄弟で仲違いをすることになった(1922年に和解)。1915年より2年の間『非政治的人間の省察』を執筆、協商国フランス帝国主義民主主義に対し、反民主主義的不平等人格主義のドイツを擁護して論じた。1918年にドイツが敗戦すると、マンはドイツにおける市民社会の代弁者として各地で講演に招かれ、1923年の著作『ドイツ共和国について』でヴァイマル共和政への支持をドイツの知識層に呼びかけた。1924年魔の山』発表。1926年より『ヨセフとその兄弟』に着手。旧約聖書の一節をそれだけで図書館が建つと言われるほどの膨大な資料をもとに長大な小説に仕立て上げたもので、その後幾度も中断を経て1944年まで書き継がれた。1929年ノーベル文学賞受賞。翌年に受賞第1作となる『マーリオと魔術師』を発表する。

1930年前後よりナチスが台頭すると、マンは国家社会主義の新聞に対して論陣を張り、1930年にはベルリンで講演『理性に訴える』を行いナチズムの危険性を訴えた。またこの講演では労働者階級による抵抗を励ますと同時に社会主義共産主義への共感が増していることを表明している。1933年1月30日ヒトラーが政権を握ると、兄ハインリヒ・マンとともにドイツ・アカデミーを脱退。2月23日から夫婦でスイスに講演旅行中にベルリン国会炎上事件が起き、ミュンヘンにいた長男クラウスから助言を受けてそのままスイスに留まる決意をする。1936年、マンはドイツ国籍およびドイツにおける財産を奪われ、自宅に残してきた日記、書簡、資料やメモ類を永久に失った。
亡命生活と戦後

1933年秋、マンはスイスチューリッヒ近くのキュスナハト(Kusnacht)に住居を定めた。1935年のマン60歳の誕生日もスイスで盛大に行なわれ、出版社から贈られた祝詞集にはアルベルト・アインシュタインバーナード・ショークヌート・ハムスンなどからの手書きの言葉が寄せられた。同年ハーヴァード大学名誉博士を授与される。1936年11月、チェコスロバキア国籍を取得。1937年スイスにおいて雑誌『尺度と価値(Mas und Wert)』を創刊、1940年の廃刊まで同誌で反ナチスの論陣を張る。1938年、アメリカに移住しプリンストン大学客員教授に就任(のちに名誉教授)。大戦中のアメリカではドイツ、オーストリアからの亡命者を支援した。

1939年、長編小説『ワイマルのロッテ』をストックホルムに亡命中のフィッシャー社より刊行。文豪としての名声を得たゲーテと、彼がかつて『若きヴェルテルの悩み』のロッテのモデルとしたシャルロッテ・ブッフとの再会を描いており、のちに作品の一節をニュルンベルク裁判でイギリスの裁判官がゲーテ自身の言葉として引用したことが問題となった。

1940年6月、フランス降伏後の「緊急救出委員会」に協力。10月よりBBC放送を通じて毎月定期的に、ドイツ国民にナチスへの不服従を訴え続けた。しかし国外で富裕な生活を送りながら反独活動をしたことは戦後ドイツでマンに対する賛否両論が起こる原因となった。

1941年1月、ルーズベルト大統領の賓客として、ホワイトハウスに滞在。4月にカリフォルニア州パシフィック・パリセーズに家を建て永住を決める。1944年6月、アメリカ市民権を取得。1947年、長編『ファウストゥス博士』を発表。40年以上前の短編プランをもとに着手されたもので、自身の芸術と文学に対する集大成を行なった。1949年フランクフルト・アム・マインよりゲーテ賞を受賞。キルヒベルクのマンの墓

1952年6月、パシフィック・パリセーズを離れ、ヨーロッパ各地を巡ったのち12月にチューリッヒ南隣のキルヒベルク(Kilchberg)に移り住む。この年レジオン・ドヌール将校十字章を受章。1953年、22年ぶりに故郷リューベックを訪れる。1954年、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白 回想録の第1部』を出版。

1955年3月、リューベック名誉市民、およびベルリン・ドイツ芸術アカデミー名誉会員に選ばれる。5月にはフリードリッヒ・シラー大学名誉博士号を贈られ、ドイツ・シラー協会名誉会長となった。6月には80歳の誕生日を記念し東ドイツで全集が刊行。チューリヒで行なわれた祝賀会で全集が手渡され、フランスからの祝詞集にはヴァンサン・オリオール大統領、ロベール・シューマン外相、シュヴァイツァーピカソロジェ・マルタン・デュ・ガールモーリアックマルローカミュらが言葉を寄せた。この年の7月、オランダで病に倒れ、チューリッヒ州立病院へ送られる。8月12日、心臓冠状動脈血栓症により同地にて死去。遺体はキルヒベルクに葬られた。埋葬式に数百人が集まり、ヘルマン・ヘッセが別れの言葉を述べた。
日本における受容

日本での初翻訳は1910年(明治43年)に『帝国文学』第16巻9号に掲載された林久夫訳による短編『箪笥』(現在では普通『衣装戸棚』と訳される)であり、単行本では1927年(昭和2年)に日野捷郎(實吉捷郎)の訳による『トオマス・マン短編集』『トニオ・クレエゲル』が初である。


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