トーマス・ハーディ
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それは力強い想像力、深い深い詩的な天才、高尚で仁慈な魂に映じたままの、世界と人間の運命との幻影なのである」(「トマス・ハーディ論」(『一般読者』第2集))と述べている[13]ロバート・グレーヴス『さらば古きものよ』では、1920年代にドーセットでハーディに会い、ハーディが彼とその妻を温かく受け入れてくれて、それが励みとなったことが思い起こされている。ドーチェスターにあるハーディの生地と、マックスゲートは、ナショナル・トラストが保有している。
作品
小説ドーセットのハーディ生家、ここで『緑樹の陰』『遥か群衆を離れて』などが書かれた

ハーディの最初の小説『貧乏人と淑女』は1867年に書き上げられたが、出版社を見つけられず、友人のジョージ・メレディスは作品が非常に政治的なためにハーディの将来の傷になるかもしれないと助言した。ハーディは助言を受け入れ、出版をあきらめ、原稿を破棄したが、作品のいくつかのアイデアはのちの作品でも使っている。[14] のちの回想においてハーディはこの作品について「社会主義的だが、革命志向ではなく、また論争的でもない」と述べている。[15]

その後、より商業的な作品『窮余の策』『緑樹の陰』の2作を執筆し、匿名で出版された[14]。1873年に『青い眼』はハーダィ自身の名義で出版された。この連載時には、主役の一人ヘンリー・ナイトが崖からぶら下がるシーンなど、チャールズ・ディケンズによりポピュラーになったクリフハンガー(いいシーンで次回に続く)の手法が使われた[16][17]。ハーディの小説のいくつか、特に『窮余の策』『遥か群衆を離れて』『塔上の二人』では、法律の複雑さについて、1860年代に流行したセンセーション小説の影響を受けている[18]

ハーディは『遥か群衆を離れて』で西イングランドの一地方をウェセックスと呼ぶ設定を用いた。ウェセックスは、古いサクソン人の王国のあった地域を指す。『遥か群衆を離れて』はハーディが建築の仕事をやめて文学の道を進むのに十分な成功を得た。

その後ロンドンからヨービル、スターミンスター・ニュートンへと移る[19]。ここで執筆した、エグトン・ヒースを舞台にしたギリシア悲劇的な恋愛物語『帰郷』(1878年)は、発表当時はヴィクトリア朝の人々の内情を詳細を描いたことで不評を買ったが、発表数年を経て徐々に評価されるようになった。1883年にはハヴロック・エリスが「農民生活についてのこの洞察力の新鮮さこそ、ハーディをしてツルゲーネフに類似させる諸点の一つである」と評し、D.H.ロレンスは「人間の意識で把握され公式化された小規模の道徳制度を、人間の意識を超越する、嘗つて一度も理解されたことがなく、今後も理解されえない『自然』、すなわち、生命自体の、広大無辺の道徳の内に仕掛けたこと、--これこそハーディが、シェイクスピア、またはソフォクレース、またはトルストイらの大作家と共有するところの特質なのである」(「トマス・ハーディの六つの小説と悲劇の真意義」1913年)と述べた[13]。 『ラッパ隊長』(1880年)はハーディ唯一の歴史小説であり、1882年の『塔上の二人』は天文学の世界を舞台にしたロマンスである。1885年にマックスゲートに移り、建物はハーディが設計し、彼の兄弟が建築した。ここで執筆された『ダーバヴィル家のテス』は、一度は発表を断られた作品で、「落ちた女性」に同情的な描写で批判を巻き起こし、ヴィクトリア朝の中流階級の眉をひそめさせるような作品だった。

『日陰者ジュード』では、性、宗教、結婚の扱いにより、それよりもさらに強い非難を浴びた。結婚制度への批判は、エマとの結婚生活が難しくなっていたことから自伝的なものとして読まれた。いくつかの書店ではこの小説を茶色い紙袋に入れて売り、ウェイクフィールド教区の監督ウォルシャム・ハウはこの本を焼却したと噂された[10]。このような事件があったものの、ハーディは1900年代には著名人になっていたが、世間の非難にさらされたことで小説の執筆からは離れるようになった[20]

若い頃から故郷であるウェセックス地方の民間伝承、説話、迷信、呪術、幽霊といった怪奇的、超自然的とも言えるようなものに興味を持っており、短編小説や、その他の作品で扱わてバラッド的なものになっている。短編「魔女の呪い」 (The Withered Arm) では、女性の嫉妬心による悪夢が生き霊を招き寄せるというもので、ハーディが古い知人から聞いた話が元になっている。長編小説でも『帰郷』では人形に針を刺して焼き、呪い殺そうとする場面があり、『遥か群衆を離れて』では手紙の送り相手を決めるために賛美歌の本を投げて「開いたらテッディ、閉じたらボールウッド」と占う場面などがある。また少年時に通った学校経営者の夫人に可愛がられたことから、貴族たちの生活への好奇心を持っており、ウェセックスの貴族階級の裏面を暴露した作品が『貴婦人たちの物語』などに収められている。「三石塔殺人事件」 (What the Shepherd Saw) は、公爵夫人の秘密がドルイド教の廃墟を舞台ににして語られる。『貴婦人たちの物語』は、ジョン・ハッチンズ『ドーセット史』を調べたり、古老の話を聞いたりして貴族階級の裏面を探って執筆したもので、「彫像の呪い」 (Barbara of the House of Grebe) は、この地の第5代シャッフスベル伯爵の夫人の不幸な生涯を題材にしている。「マージェリと謎の男爵」 (The Romantic Adventures of a Milkmaid) は上流社会に憧れる純朴な田舎娘をめぐるメロドラマだが、アメリカで人気が出て、『ハーパーズ・ウィークリー』誌に1883年に連載され、その後も著作権を無視して10回以上出版された[21]ドーチェスターにあるハーディの記念碑

1898年に、30年以上にわたって書き続けていた詩を集めた最初の詩集『ウェセックス詩集』 (Wessex Poems) を出版した。『日陰者ジュード』への厳しい批評のために小説を書くことをあきらめたのだとも言われるが、詩人C.H.シソンはそれを「仮説」「表面的で不合理」としている[20][22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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