トーキー
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フィルムを映写し、音をスピーカーで鳴らすという形の世界初の上映とされている。パリ万博では他に前述のフォノラマやテアトロスコープ[10]というシステムも公開された[11]

映像と音声を別々に記録・再生する方式には、3つの大きな問題があった。最大の問題は同期である。別々に記録してあるため、完全に同時にスタートさせ、常に同期をとるのは非常に難しい[12]。また十分な音量で再生することも難しかった。映像の方はすぐに大きなスクリーンに映写できるようになったが、真空管による電気的増幅が可能になるまで、観客席全体に響くような大音量を出すことはできなかった。最後の問題は録音の音質である。当時の録音システムでは、演奏者が面倒な録音装置の目の前で演奏しない限り、極めて聞き取りにくい音声しか録音できなかった。そのため、撮影と同時に録音する場合、映画の題材が限られることになった[13]サラ・ベルナールが描かれたポスター。GratiouletとLioretのシステムを使い1900年のパリ万博で18人の有名アーティストの動画を上映することを告知したもの

様々な方式で同期問題の根本的対処が試みられた。多くのシステムが蓄音機レコードを利用しており、これをサウンド・オン・ディスク技術と呼ぶ。円盤式レコード自体は発明者のエミール・ベルリナーに因んで「ベルリナー盤」と呼ばれた。1902年、レオン・ゴーモンが独自のサウンド・オン・ディスク方式Chronophoneを公開した。これには映写機と蓄音機を電気的に接続する特許が使われていた[14]。4年後、ゴーモンはイギリスの発明家 Horace Short と Charles Parsons の開発した Auxetophone に基づいた圧縮空気による増幅システム Elgephone を開発した[15]。期待を集めたものの、ゴーモンの技術革新は商業的にはあまり成功しなかった。発声映画の3つの問題を完全に解決したわけではなく、その上高価だった。そのころ、ゴーモンのライバルとしてアメリカの発明家E・E・ノートンのCameraphoneがあった(円筒式なのか円盤式なのか資料によってまちまちである)。こちらもChronophoneと似たような理由で成功には至らなかった[16]

1913年、エジソンは1895年のシステムと同じくキネトフォンと名付けた映写式の発声映画システムを開発した(音源は円筒式レコード)。蓄音機は映写機内の複雑に配置された滑車と接続されており、理想的条件下では同期できた。しかし実際の上映が理想的条件でなされることは滅多にないため、この改良型キネトフォンは1年ほどで姿を消した[17]。1910年代中ごろには、発声映画の商業化の熱が一時的に低下した[16]。宗教団体 エホバの証人は人類の起源についての自説を広めるため、1914年からアメリカ合衆国各地を巡回して The Photo-Drama of Creation を上映した。これは8時間もの超大作で、別に録音された説教と音楽を蓄音機で同時に再生していた[18]

そのころ、技術革新は重要な局面を迎えていた。1907年、フランス生まれでロンドンで活動していたユージン・ロースト(1886年から1892年までエジソンの下で働いていた)がサウンド・オン・フィルム技術の世界初の特許を取得した。これは、音声を光の波に変換し、セルロイド上に焼き付けるというものである。歴史家 Scott Eyman は次のように解説している。

それは二重のシステムであり、音と映像は別々のフィルム上にあった。(中略)基本的に音をマイクロフォンでとらえて電球を使って光の波に変換し、狭いスリットのある薄く敏感な金属リボンに照射する。このリボンのスリットを通過した光をフィルムに焼き付けると、幅が0.1インチ前後の震えるように変化する光の帯となる。 ? Scott Eyman、Eyman 1997, pp. 30?31

サウンド・オン・フィルム方式は発声映画の標準となったが、ロースト自身は自分の発明をうまく活用できなかった。1914年、フィンランドの発明家 Eric Tigerstedt は独自のサウンド・オン・フィルム方式の特許をドイツで取得し(#309,536)、同年ベルリンの科学者らの前で試験上映を行った[19]。ハンガリーの技術者 Denes Mihaly も1918年に独自のサウンド・オン・フィルム方式の特許を出願している。こちらの特許が成立したのは4年後である[20]。しかし、これらのシステムは音をどこにどう記録するかという部分では様々だが、いずれも商業的に成功するには至っていない。ハリウッドの大手スタジオも発声映画ではほとんど利益を上げられなかった[21]
重要な技術革新

多数の技術革新により、1920年代後半における発声映画の商業化が可能となった。サウンド・オン・フィルム方式とサウンド・オン・ディスク方式の両方で技術革新がなされた。

サウンド・オン・フィルム方式では、1919年、アメリカの発明家リー・ド・フォレストがサウンド・オン・フィルム方式の商業化を可能にするいくつかの特許を取得した。ド・フォレストのシステムでは、サウンドトラックは映画のフィルムの端に焼き付けられている。録音時に映像と音声がしっかり同期していれば、確実に再生時にも同期できる。ド・フォレストはその後4年間、他の発明家セオドア・ケースから関連する特許のライセンスを受け、システムの改良に取り組んだ[22]

イリノイ大学ではポーランド出身の工学者 Joseph Tykoci?ski-Tykociner も同様の研究を独自に行っていた。1922年6月9日、彼はアメリカ電気学会(AIEE)の会員に対してサウンド・オン・フィルム方式のデモンストレーションを公開した[23]。ローストやTigerstedtと同様、Tykocinerのシステムも商業的に成功することはなかった。ただし、ド・フォレストは間もなく成功を収めることになった。ド・フォレストのフォノフィルムの短編映画の新聞広告(1925年)。蓄音機を使っていない点を強調している。

1923年4月15日、ニューヨーク市のリボリ劇場で世界初のサウンド・オン・フィルム方式の映画が商業上映された。ド・フォレストのフォノフィルムと題して複数の短編映画とサイレントの長編映画を組み合わせた上映だった[24]。同年6月、ド・フォレストはフォノフィルムの重要な特許について従業員 Freeman Harrison Owens との法廷闘争に入った。法廷では最終的にド・フォレストが勝ったが、今日ではOwensが主たる発明者だったと認められている[25]。翌年、ド・フォレストのスタジオはトーキーとして撮影された最初の商用劇映画 Love's Old Sweet Song(2巻、監督 J. Searle Dawley、主演 Una Merkel)を公開した[26]。しかし、フォノフィルム作品の多くはオリジナルのドラマではなく、有名人のドキュメンタリー、流行歌の演奏シーン、喜劇などだった。カルビン・クーリッジ大統領、オペラ歌手の Abbie Mitchell、ボードヴィルのスター Phil Baker、Ben Bernie、エディ・カンター、Oscar Levant といった人々が初期のフォノフィルムの映画に登場していた。ハリウッドは新技術に懐疑的で慎重だった。Photoplay誌の編集者ジェームズ・カークは1924年3月、「ド・フォレスト氏は言う『トーキーは完成した。ひまし油と同じように』と」と書いている[27]。ド・フォレストの方式は1927年までアメリカ国内で十数本の短編映画に使われ続けた。イギリスでは数年長く使われ、British Talking Pictures の子会社である British Sound Film Productions による短編映画と長編映画が作られた。1930年末までにフォノフィルムの商業利用は衰退した[28]

ヨーロッパでも独自にサウンド・オン・フィルム方式を開発する人々がいた。1919年、ド・フォレストが特許を取得したのと同じ年、3人のドイツ人発明家がトリ=エルゴン音響システムの特許を取得した。1922年9月17日、劇映画 Der Brandstifter を含むトリ=エルゴンのサウンド・オン・フィルム方式の映画がベルリンの Alhambra Kino で招待客に公開された[29]。ヨーロッパではこのトリ=エルゴンが一時主流となった。1923年には2人のデンマーク人技師 Axel Petersen と Arnold Poulsen が映画のフィルムとは別のフィルムに音声を録音し、2本のフィルムを並行させて映写・再生する方式の特許を取得した。これをゴーモンがライセンス取得し、Cinephone の名前で商業化した[30]

フォノフィルムが衰退したのはアメリカ国内の競争の激化が原因だった。1925年9月にはド・フォレストとケースの事業はうまく行かなくなってきた。翌年7月、ケースは当時ハリウッドで3番目の大手スタジオだったフォックス・フィルムに加わり、フォックス・ケース社を創設した。ケースは助手の Earl Sponable と共に新たなトーキーシステム「ムービートーン」を開発し、これがハリウッドの大手スタジオが支配する初のトーキーシステムとなった。翌年フォックスは北米でのトリ=エルゴンの権利も買い取ったが、ムービートーンの方が優れていることが判明し、両者を統合することで新たな利点を得ようと考えたものの、統合は事実上不可能だった[31]。1927年にはド・フォレストとの訴訟に敗れた Freeman Owens を雇った。彼はトーキーのカメラ組み立てに特に熟達していたためである[25][32]

サウンド・オン・ディスク方式はサウンド・オン・フィルム方式と並行して改良が進んだ。蓄音機のターンテーブルを特殊仕様の映写機と相互接続して同期するようになっていた。1921年、Orlando Kellum が開発したフォトキネマシステムは、D・W・グリフィスの失敗に終わった無声映画『夢の街 (en)』に音を同期させるのに使われた。出演者の Ralph Graves がラブソングを歌うシーンが追加で撮影され、同時に録音が行われた。台詞も録音したが、出来が悪かったため、その部分は公開されなかった。1921年5月1日、ラブソング部分を追加した『夢の街』がニューヨークで公開され、撮影と同時に録音した部分を含む世界初の長編映画となった[33]。同様の映画が製作されるのは6年後のことである。ワーナー・ブラザース『ドン・ファン』(1926年)のポスター。全編に同期サウンドトラックを採用した初期の映画の1つ。ハリウッド初の録音技師 George Groves が関わった映画であり、彼は44年後に『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』の音響を監修している。


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