また同年、デヴィッド・バーンがソロ活動を始める。ブライアン・イーノとのコラボレーション・アルバム『マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ(英語版)[注 3]』を発表。また舞台のサウンドトラック・アルバム『The Catherine Wheel』を同年12月に発表した。また、ジェリー・ハリスンもファースト・ソロ・アルバム『赤と黒(英語版)』を発表した。
1982年3月、二枚組のライブ・アルバム『實況録音盤(英語版)』を発表。同アルバムは、バンドの停滞にしびれを切らしたマニアが『Electricity』という海賊盤(1978年のクリーブランドでのライブ)を幅広く出回らせてしまう[2]という事態が起きたため、レコード会社が対策的にリリースしたものである。
同年7月に開催されたモントルー・ジャズ・フェスティバルの初日に出演。トム・トム・クラブがトーキング・ヘッズのオープニングアクトを務めた[3][4]。
1983年6月、セルフ・プロデュースによるアルバム『スピーキング・イン・タングズ』を発表[5]。シングルカットされた「バーニング・ダウン・ザ・ハウス」がバンド史上初で唯一のトップ・テン・ヒットを記録した。
このアルバムのツアーは、ジョナサン・デミにより『ストップ・メイキング・センス』のタイトルで[注 4]、ドキュメンタリー映画化された。なお、このツアーは結果的にバンドとしての最後のものになった。 1985年7月、アルバム『リトル・クリーチャーズ』を発表。前作までのリズムへの偏執をそのままに、アメリカの様々なカントリー・ミュージックのエッセンスを取り込んだ。「アンド・シー・ワズ」「ロード・トゥ・ノーウェアー」などがヒットしたが、バンドはツアーは行なわず、同路線での次作のレコーディングを始めた。また、それと並行して、デヴィッド・バーンは映画の製作に取りかかった。 1986年10月、アルバム『トゥルー・ストーリーズ』を発表。まもなくバーンの映画『トゥルー・ストーリーズ
ルーツの探求とソロ活動 (1985年 - 1989年)
この頃からバンド内で不協和音が響くようになった。ジェリー・ハリスンがこの時期に再びソロ活動を始め、アルバム『カジュアル・ゴッズ』をリリースしたが、シングル「リヴ・イット・アップ」リリース時のインタビューで、バーンについて「彼が総てをやっているわけじゃない」とバンド内での自分の音楽的貢献が全く評価されない現状を嘆いている[6]。
バンドとして最後のアルバムになった『ネイキッド』は、バーンの意向により、パリでレコーディングされた。当時のパリはライ、ズーク (en:zouk)、タンゴ、サンバ、ハイライフなどの民族音楽が隆盛だった。スティーヴ・リリーホワイトとの共同プロデュース作『ネイキッド』では現地のミュージシャンを大々的に起用し、「さまざまな音楽の要素が混ざりあったもの」[7]を目指した。
『ネイキッド』後、バーンがワールドミュージック専門のレーベル「ルアカ・バップ」を設立し、『ネイキッド』の音楽性を更に押し進めたアルバム『レイ・モモ』をソロ・アルバムとしてリリースすると、バンドは実質的な解散状態に陥った。 『ネイキッド』以降、バンドとしての活動は途絶えていたが、1991年、ヴィム・ヴェンダースの映画『夢の涯てまでも』のために「サックス・アンド・ヴァイオリンズ」をレコーディングをするために集結、レコーディング終了後に、バンドの解散が正式にアナウンスされた。 デヴィッド・バーンはソロ活動はもとより、「ルアカ・バップ」でのワールドミュージックの紹介など精力的に活動を続けている。クリス・フランツ、ティナ・ウェイマスは引き続きトム・トム・クラブで活動。ジェリー・ハリスンは、バンド解散後にプロデューサーに転向。ヴァイオレント・ファムズ
解散、メンバーのその後(1991年以降)
1996年には、バーン以外の3人が「ザ・ヘッズ(The Heads)」を名乗り、XTCのアンディ・パートリッジ、INXSのマイケル・ハッチェンス、ブロンディのデボラ・ハリーなど、他のバンドのボーカリストにボーカルを取らせたアルバム『ノー・トーキング、ジャスト・ヘッド』をリリースした後、ジョーネット・ナポリターノをボーカルに迎えたツアーを行った[注 5]。
2002年にはロックの殿堂入りを果たし、授賞式で恒例となっているライブのために一夜だけの再結成を行ったが、メンバー間には終始冷たい空気が流れていた。