トンガ
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西はソロモン諸島の一部、ニューカレドニアとフィジー全域、東はサモアとニウエ、さらには現代のフランス領ポリネシアの一部まで、南太平洋の国家としては未曽有の広さを征服、支配したタラソクラシーであった。トゥイ・トンガは太平洋における経済的、民族的、文化的覇権で有名になり、それは13世紀のサモア革命や1616年のヨーロッパ人による島々の外部発見後も強力なままであった[8]

1900年から1970年まで、トンガはイギリス保護国であった[9]。イギリスは友好条約に基づきトンガの外交を担当したが、トンガはいかなる外国勢力にも国家主権を放棄しなかった。立法改革が最初の部分的代表選挙への道を開いた後の2010年、トンガは伝統的な絶対王政から脱却し完全な立憲君主制へと移行するための決定的な一歩を踏み出した。
国名

正式国名である Pule?anga Fakatu?i ?o Tonga は、トンガ語で「南」の意味[4]

公式の英語表記は Kingdom of Tonga、通称 Tonga。

日本語表記はトンガ王国、通称トンガ。

漢字表記は「湯加」。
歴史詳細は「トンガの歴史」を参照

考古学的な証拠から、トンガへの最初の植民者はサンタクルーズ諸島から船で来たことが分かっている。紀元前4000年ごろから、元々東南アジアにいたオーストロネシア語を話す人々の祖先(ラピタ人)がポリネシアへ移住してきたが、トンガへの植民はこの動きの一部である。トンガは考古学的な年代推定から、紀元前800 - 750年前の独特のラピタ式土器が出土しているため、ポリネシアで一番古い遺跡として認められている。ラピタ人たちは、1000年にわたって、現在はトンガ、サモアフィジーとして知られている島々で生活し、航海し、戦争や異なった種族間の結婚を行なっていた。その後、より多くの探検者たちが東へ出発してマルキーズ諸島タヒチ、最終的には南太平洋の他の島々を発見した。このことにより、人類学者たちはトンガ、サモアとフィジーをポリネシアの文化と文明の発祥地と評する。トンガの航海カヌー

12世紀までに、トンガ人とトンガの大酋長、すなわちTu'i Tonga(神聖王)はニウエからティコピア島まで、南太平洋各島に知れ渡っていた。このことから、ただちにトンガ帝国と言及する歴史家もいる。もっと良い言い方としては、相互にやりとりを行う、航海者、首長、冒険者のネットワークというのが妥当であろう。15世紀17世紀には、内戦が勃発した。オランダ人の探検家ウィレム・スホーテン(英語版)(Willem Schouten)とヤコブ・ルメール(Jacob Le Maire)が1616年にヨーロッパ人として初めてトンガに到着したのは、このような時期であった。他のヨーロッパ人の来航としては、最も重要なイギリス海軍ジェームズ・クックの到来(1773年1774年1777年)、また最初のイギリス政府使節の来訪(1797年)、キリスト教メソジストのWalter Lawreyの来訪(1822年)が挙げられる。ジェームズ・クックの来航は、トンガがイギリス帝国(大英帝国)の一部に組み入れられる過程への決定的な第一歩となった。

トンガは、若き戦士、戦略家、雄弁家であり「トゥイ・カノクポル(Tu'i Kanokupolu)」という「首長」の称号を持つ家系の子孫であるタウファアハウ(Taufa'ahau)により、ポリネシア人の王国として1845年に統一された。彼は、首長の称号の Tu'i Kanokupolu(トゥイ・カノクポル)を持っていたが、伝統的な信仰を捨て、「ジョージ王(King George)」との洗礼名プロテスタントの洗礼を受け、キリスト教へ改宗した。一方で、トンガでは島にポリネシア人が入植した遥か昔から連綿と続いてきた神聖王(トゥイ・トンガ)の家系が伝統的な権威として存続していた。その末裔であるラウフィリトンガ (Laufilitonga)は39代目のトゥイ・トンガであり、最後のトゥイ・トンガであった。ラフィリトンガはカトリックへ改宗し、カトリック勢力から銃器の供給を受け、最初はジョージ王に対して優勢に戦いを進めた。しかし、ジョージ王はプロテスタント勢力(メソジスト)からラフィリトンガを遥かに上回る量の銃器を入手し、血みどろの戦闘の末にラウフィリトンガを破った。この結果、有名無実と化していた神聖王(トゥイ・トンガ)は滅亡し、ジョージ王(トゥポア1世[3])として新王朝を開いた。こうして、トンガの聖俗二重王権構造(神聖王としてのトゥイ・トンガ王朝と首長として実権を握るトゥイ・カノクポル王朝)の構造は終焉を迎えた[10]

1875年に、使節のシャーリー・ベーカー(Shirley Baker)の助けで、ベーカーは法典を整備しトンガを立憲君主国として宣言した。その時にはベーカーは奴隷を解放し、また法典、土地保有、出版の自由を大事なものとして扱い、そして首長(国王)の権力を制限した。1900年にトンガは、友好条約の下でイギリスの保護領となった。その時、ヨーロッパ人の植民者とライバルのトンガの首長は2代目の王を追放しようとしていた。友好条約と保護領の地位は、3代目の君主のサローテ・トゥポウ3世(サローテ女王)が亡くなる前に結ばれた条約の下で、1970年に終わりを迎えた。トンガは1970年にイギリス連邦(英連邦)に参加し、1999年には国際連合に加盟した。植民地化の力にさらされたにもかかわらず、トンガは決して現地人による統治を失うことが無かった。このことは、多くが欧米諸国や日本の領土にされた歴史を持つ南太平洋の島嶼国家では珍しいことであり、トンガ国民の誇りとなっている。
近年の動き

1984年外貨獲得のためトンガのパスポート販売を合法化する国籍法が承認(88年に違憲判決)。以後、政府関係者が売買利益で私腹を肥やしていると批判が高まる。

1985年:所得税率均一化と消費税導入案を政府が発表、同時期に政府に批判的なアキリシ・ポヒヴァ大学講師解雇事件が重なり、アキリシが新聞を創刊して民主化運動の嚆矢となる。

1991年:日本の無償資金協力によって建設中だったファアモツ国際空港のターミナルビルが完成[11]。同年、ファタフェヒ・トゥイペレハケ(英語版)王子(タウファアハウ・トゥポウ4世の弟)が首相辞任(1965年就任)。前年の総選挙で当選したアキリシ・ポヒヴァ(英語版)らの民主派が1984年国籍法の改正を図るも否決、反発した民主派議員の呼びかけで大規模デモ発生。

1998年11月2日中華人民共和国との国交を樹立[3]。これに伴い、中華民国台湾)との外交関係は終了[3]

1999年9月14日:国際連合に加盟。

2001年1月:ウルカララ王子が首相に就任。

2002年2月:政権に批判的な新聞への強権を行使するトンガ政府へ、ニュージーランドが警告を発する。

2003年:政府と議会は反政府的な新聞の排除を企図して新聞条例を可決。首都ヌクアロファで大規模デモ。これを憂慮したニュージーランドが開発援助の見直しを示唆するも新聞条例は施行される。

2004年5月:国営航空会社ロイヤル・トンガ・エアラインが倒産。観光業に打撃を受けて経済不況に突入。また国内線立て直しで、ツポウトア皇太子の経営する航空会社へ独占的に運行権を認めるかどうかでウルカララ内閣は対立。解任されたエドワーズ副首相代行(元警察大臣)ら3名が民主派へ合流した。

2005年

1月:皇太子経営の電力会社の料金値上げに対し、値下げと国王退位を求めるデモが起こる。国王批判までに民主化運動がエスカレートする。

7月:公務員によるストライキが発生。以後デモや放火事件、ストライキが散発的に発生。

10月:民主化運動に対し、議会はツポウトア皇太子のいとこであるトゥイペレハケ王子を委員長として政治改革国民委員会を創設。政府による政治改革プラン策定に動く。


2006年

2月:首相のウルカララ王子(タウファアハウ・トゥポウ4世の三男)が辞任。国王後継を争う第1王子ツポウトア皇太子の圧力があったとされる。後任は初の改革派民選首相となるフェレティ・セベレ

7月5日夜:アメリカ合衆国カリフォルニア州の高速道路で、18歳の少女が運転する車が暴走し、同国のトンガ人コミュニティに向かっていたトゥイペレハケ王子夫妻と王室関係者が乗る車に激突。暴走車を運転していた少女は無事だったが、トゥイペレハケ王子 (en)、カイマナ妃、運転手、ほか同乗の2名の王室関係者が死亡。王子は王族出身ながら民主化促進の立場をとったため、民主化運動による国内対立を仲介を期待できる唯一の人物とみられていた[12]

9月:タウファアハウ・トゥポウ4世が89歳で死去。第1王子のツポウトア皇太子が王位を継承(ジョージ・トゥポウ5世)。

11月16日:改革案が閣議で可決されるもデモ隊の一部が暴徒と化し暴動に発展し、7名が死亡(ヌクアロファ事件)。


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