文化面でも国際的に重要な役割を果たしており、世界クラスの博物館や美術館、劇場、フェスティバルなどが多くある。
海外から移民と投資を多く受け入れていて急速に発展しているトロントは、多文化的かつ人口構成も国際色豊かである。犯罪発生率は低く、街は清潔で、人々の生活水準も高い。また2019年には世界の主要大都市でトロントは6番目に安全だと評価されている[5]。
また、トロントに住む人々は「トロントニアン(Torontonian)」と呼ばれる。ただし狭義ではトロントで生まれ育った人々のみを指す。
アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界14位の都市と評価された[6]。カナダの都市では首位である。 「トロント」の地名は、ヒューロン族の言葉で「人が集まる場所」を意味する言葉に由来するとされる説が一時有名であったが、本来、言語学的にはモホーク族の言葉で「水の中に木が立っている場所」を意味する「tkaronto」を由来とし、フランス人探検家や地図制作者を介してトロントになったとされる[7]。地勢的にはトロント北部のシムコー湖にヒューロン族が魚を囲い込むために苗木を植えたオリリア市の辺りを起源とする。当時、オンタリオ湖からヒューロン湖の陸路輸送ルートであったこの辺りでは広く使われていた地名であった。 ヨーロッパからの入植が見られる以前からトロント周辺地域には紀元前1500年前にイロコワの部族から土地を占領した先住民ヒューロン族が定住していた。トロントの地図(1894年) 1750年にフランス人商人によって交易所「フォート・ルイユ」(Fort Rouille[8])が設立されたが、1759年には使われなくなった。アメリカ独立戦争の際、英国王党派の流入が多く見られ、未入植の地であったオンタリオ湖岸の北部への入植が進んだ。1787年、イギリスはオンタリオ湖北部の土地を所有するミシサガ族と交渉し、わずかな資金で購入することに成功した[9]。 1813年、米英戦争の最中、ヨークの戦いで町はアメリカ軍に占拠略奪された。町の明け渡し交渉は、ジョン・ストラッチャン(John Strachan
歴史詳細は「トロントの歴史(英語版)」を参照
地名について
19世紀以前
19世紀
1834年3月6日、人口わずか9,000人であったがヨークの町は市制となり、名称を「トロント」へ改称した。初代トロント市長は急進的改革派の政治家ウィリアム・ライアン・マッケンジー(William Lyon Mackenzie)が就任した。彼は後の1837年に起きたアッパーカナダの反乱で、イギリス植民地政府であるアッパーカナダを相手に武装蜂起し、反乱軍を指揮したがあえなく敗退し、アメリカへ亡命することとなる。以後19世紀の終わりにかけて、トロントはカナダの代表的な移民先となり、急速に発展を見せた。最初の大きな人口流入は1846年から1849年に起きたアイルランドのジャガイモ飢饉によるもので、カトリック系のアイルランド人が多く移り住んだ。
1851年には、トロント市内でアイルランド生まれの人口が単独で最も大きな民族グループとなった。数少ないプロテスタント系のアイルランド移民は、すでにいたスコットランド人とイギリス人に歓迎され、プロテスタント系の組合であるオレンジ結社はトロント社会に大きな影響力を持った。
トロントは1793年以来アッパーカナダの首都であった。また短い期間だが2回、最初の1849-1852年と2回目の1856-1858年の間、連合カナダの首都であった。首都であったことから市内には王室の名代である副王が住む総督官邸があった。カナダの首都はその後ケベックを経て、カナダ自治領が誕生する1867年の前年に現在のオタワへ移った。トロントは1867年のオンタリオ州設立の際には州都と定められ、クイーンズパークに州議会議事堂が建設された。
19世紀中頃、トロントでは急速に産業化が進んだ。大規模な下水処理施設が建設され、通りにはガス灯によって常時明かりが灯されるようになる。長距離鉄道が建設され、五大湖北部とトロントを結ぶ路線が1854年に完成した。グランド・トランク鉄道とグレート・ノーザン鉄道は市街地にあった初代ユニオン駅の建物で結ばれた。鉄道の出現で劇的な数の人口流入と商業の発展が見られ、同時にオンタリオ湖を航行する蒸気船とスクーナー船の入港も見られた。トロント鉄道会社が市政府より交通機関を運営する権利が与えられた1891年、輸送機関は馬車鉄道から電力で走る路面電車へと代わった。この会社は後に、北米の公共交通網としては3番目の規模をもつ現在のトロント交通局となる。トロント港(1919年) 1904年のトロント大火で市街地の大部分は焼失したがすぐに再建された。この火災で1,000万カナダドル以上の被害を受け、この経験からより厳しく安全な消防法が採用され、消防署の設置を増やすに至った。 19世紀後半から20世紀初頭にかけて東ヨーロッパの広い地域からドイツ人やイタリア人、ユダヤ人を中心に新しい民族グループの移民が見られるようになった。この後、続いてすぐに中国人やロシア人、ポーランド人のほか、東ヨーロッパ諸国からの移民が目立った。そして、これらの新しい移民の多くは先のアイルランド人移民のように掘っ建て小屋のようなスラム街に密集して暮らすこととなる。スラム街となっていたいくつかの区域は、現在の金融街や先端医療の研究機関が集中するリサーチパーク(ディスカバリー地区)へと様変わりしている。1920年代、急成長にもかかわらずカナダ国内におけるトロントの人口と経済力は、より歴史あるモントリオールに甘んじて2番目だった。それでも1934年には、トロント証券取引所が国内最大の証券取引所となる。 第二次世界大戦後、戦争で荒廃したヨーロッパからの難民が流入し、またイタリアとポルトガルからは出稼ぎの建設労働者が到来した。1960年代後半に人種別移民受入政策が撤廃されて以来、世界中から移民がやって来るようになった。1951年にトロントの人口は100万人を超え、以後大規模な郊外化現象とともに1971年には200万人を突破した。1980年代にはトロントの人口はモントリオールを抜いてカナダ最大となり、カナダ経済最大の拠点となった。この時期、ケベック州で再び独立の動きが強まったことで政治不安が広がり、多くのカナダ企業と多国籍企業は本社をモントリオールからトロントやカナダ西部の都市へと移転させた[10]。 トロント市は1954年に発足した地方自治体メトロポリタン・トロントの一都市として組み入れられた。戦後のブームで郊外の急速な発展が進み、メトロ政府は土地利用と公共サービス提供の効率化のために、市町村の枠組みを超えて高速道路・公共交通機関・水道事業などのサービス提供を行った。1967年、メトロポリタン・トロントはメトロ内の7つの小さな町や村をより大きい都市へと統合し、トロントとその周辺の都市、イーストヨークやエトビコ、ノースヨーク、スカボロ、ヨークの6つの都市で構成されるようになる。1998年にメトロポリタン・トロントは解体され、この6つの都市を合併し、現在の新制トロント市が誕生した。州の地方行政区では単一層自治体に位置づけられ、大きな行政権を持つ。
20世紀