トレンティーノ=アルト・アディジェ州
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ブレッサノーネ (ボルツァーノ県) - 20,689人

ペルジーネ・ヴァルスガーナ (トレント県) - 20,582人
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トレント

ボルツァーノ

メラーノ

ロヴェレート

歴史
古代

古代、州の領域にはラエティア人が居住していた。紀元前15年ローマ帝国ティベリウス大ドルススはこの地を平定して帝国の版図に加え、ラエティア属州を置いた。
中世トリエント司教の居城であった Buonconsiglio 城

西ローマ帝国の崩壊後の民族移動時代ゲルマン人の諸部族がこの地に侵入して割拠した。ランゴバルド人のトリデントゥム公国 (Duchy of Tridentum) (現在のトレント周辺)、アラマンニ人のヴィンシュガウ (Vinschgau) (トレント自治県西部のヴァル・ベノスタ)、そして残りの地域を手中に収めたバイエルン人である[2]

カール大帝のもとでイタリア王国が形成されたのち、ブリクセン(ボルツァーノ)より北はバイエルン人の部族大公バイエルン公国)が受け継ぎ、南はヴェローナ侯国 (March of Verona) に含まれた。

1027年神聖ローマ皇帝コンラート2世は、トリエント(トレント)とブリクセン(ボルツァーノ)の司教を帝国諸侯とし、広汎な世俗の領主権を認めた。これにより、両司教領はバイエルン公国から切り離された。その後、メラン(メラーノ)近郊ティロル(ティローロ)の城主で両司教の臣下であったティロル伯が台頭して司教領内に勢力を広げ、ティロル伯領 (County of Tyrol) を形成した(その領域が、ティロル地方という広域名称の起こりとなっている)。1363年、ティロル女伯マルガレーテは、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世にティロル伯領を譲渡することを余儀なくされた。

中世初期、サロルノ以北の地域はドイツ化された。フライジングのアルベオ (Arbeo of Freising) (723年 - 784年)やオスヴァルト・フォン・ヴォルケンシュタイン (Oswald von Wolkenstein) (1376年 - 1445年)といった中世の著名なドイツ語詩人も、ティロル伯領南部地域に生まれ育っている[3]
近代
ナポレオン戦争

1803年のリュネヴィルの和約によって両司教は世俗の領主権を否定され、両司教領はティロル伯の称号を有するハプスブルク家(オーストリア)に与えられた。1805年にアウステルリッツの戦いオーストリア帝国が敗北すると、同年のプレスブルクの和約によってバイエルン王国(ナポレオンの同盟国であった)に与えられた。しかし1809年、新しい支配者に対してティロルの人々は、アンドレアス・ホーファー(英語版)の指揮のもとで反乱を引き起こす。反乱は同年のうちに鎮圧されたが、アンドレアス・ホーファーはティロルの英雄とみなされている。

1810年のパリ条約により、州の領域はオーストリア帝国とナポレオンのイタリア王国によって分割される。フランスによる統治下、この地域は歴史的なティロルとのつながりを避けるために「アディジェ川上流」を意味する Haut Adige という公式名称で呼ばれた[4]。1815年にナポレオンが没落すると、この領域はオーストリアの手に戻った。
近代のオーストリアによる統治と第一次世界大戦

オーストリアは、オーストリア帝冠領に属する「ティロル伯領」(首府: インスブルック)の一部としてこの地域を支配した。現在のボルツァーノ自治県の領域は、北ティロル(Nordtirol)と区別するために南ティロル (Sudtirol) あるいは Deutschsudtirol と呼ばれた[5]。また、現在のトレント自治県を南ティロル (Sudtirol) と呼び[6]、ボルツァーノ自治県を中ティロル (Mitteltirol) とも呼ぶことも行われていた[7]。トレント自治県の領域は、Welschtirol (Tirolo italiano) や Welschsudtirol (Tirolo meridionale italiano) と呼ばれた。南ティロル (Sudtirol) という語は、現在のトレンティーノ=アルト・アディジェ州域全体を指す語としても用いられた。

1861年、イタリア統一を果たして成立したイタリア王国であったが、その領域外に「イタリア人」が暮らす地域(未回収のイタリア)があったことから、これらをイタリア王国に編入しようとする民族統一主義(イレデンティズム)が生み出されることとなった。南ティロル・トレンティーノもその目標の一つであった。

イタリア王国は1882年にオーストリアおよびドイツと三国同盟と結んでいたが、オーストリアとの間には「未回収のイタリア」問題から摩擦があり、1914年の第一次世界大戦勃発に際してイタリアは中立の姿勢を示した。1915年、イギリスとの密約(ロンドン条約)により南ティロル・トレンティーノの引き渡しが約束されると、イタリアはオーストリアに対して宣戦を布告した。イタリア戦線(アルプス戦線)では、アルプスドロミティの山岳地帯で激しい戦闘が展開された。1918年10月、ヴィットリオ・ヴェネトの戦いに伴うオーストリア軍の敗走によって、イタリア軍はトレントを占領した。戦後の1919年に結ばれたサン=ジェルマン条約により、イタリア王国がティロルの南部にあたる現在のトレンティーノ=アルト・アディジェ州の領域を併合することが正式に認められた。
イタリア王国による統治と第二次世界大戦

1919年からのイタリア王国支配下、この地域をかつての「ティロル」の名称で呼ぶことは禁止され、「ヴェネツィア・トリデンティナ」(Venezia Tridentina) と呼ばれることになった。この用語は古代ローマ帝国の第10州ウェネティア・エト・ヒストリア (it:Regio X Venetia et Histria) に由来するもので、この地域をイタリアが支配することを正当化しようとするものである(ヴェネツィア・ジュリア#名称も参照)。

1922年にベニート・ムッソリーニのファシスト党が政権を握ると、この地域のドイツ系住民はイタリア化政策を強制された。1938年、ヒトラーとムッソリーニは、ドイツ語を母語とする住民をドイツ領土に移住させるかイタリア国内で同化させるかすることで合意する (South Tyrol Option Agreement) 。第二次世界大戦の勃発によって完全な再配置は妨げられたが、この時にドイツに移住した数千人の人々は、終戦後に父祖の地に戻るために多大な苦労を払うこととなった。

1943年、イタリア王国政府が連合国との休戦協定に署名すると、この地域はドイツ軍に占領されてアルペンフォーラント作戦地域 (de:Operationszone Alpenvorland) として編成され、大管区指導者フランツ・ホーファーの管理下に置かれた。


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