トルコ
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この地域が鉄器時代に入ったと考えられる[16]

国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)と最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイトフリュギアリディア東ローマ帝国(ビザンツ帝国)など様々な民族文明が栄えた地である。

一方、北アジアではトルコ(テュルク)系民族として突厥が552年にモンゴル系民族の支配から独立した。現在のトルコ共和国ではこれをもって最初の建国とみなしている。その後、東西に分裂し、中央アジアのアラル海東岸に割拠した西突厥の部族の一つから部族トゥグリル・ベグが出て西進を始め、ボハラ地方を部族で占領しセルジューク朝を成立させた。さらに西進して1055年バグダッドに入城、アッバース朝カリフよりスルタンに指名された。事実上アッバース朝に変わってセルジューク朝がメソポタミアの支配者となる。しかし、東アジアで覇権争いに敗れた契丹系の西遼が中央アジアに移動し、父祖の土地を占領すると、これと争い大敗して急激に衰退。のちにモンゴル帝国フラグによる侵攻を受けて滅亡する。また中央アジアのトルコ系部族集団は、さらにウイグル系民族に圧迫されてイラン(ペルシャ)北部、カスピ海東岸の隅地に逃亡して歴史の記録から消える。

11世紀に、トルコ系のイスラム王朝セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国はチンギスハーンの孫フラグのバグダッド占領、イルハーン帝国成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展したオスマン朝は、15世紀ビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。モンゴル系のティムールアンゴラ(アンカラ)の戦いで敗れ一時滅亡するが、アナトリア南部の険によって抵抗し命脈を保った一族が、ティムールの死後にオスマン朝を復興した。ムスタファ・ケマル・アタテュルク

19世紀、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地ではナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立し、欧州列強がこれに介入した(東方問題)。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦で敗北した。こうしてオスマン帝国はギリシャなどの占領下に置かれ、完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した(希土戦争)。また、東部ではアルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人ら(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人)は1919年5月、国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした(トルコ独立戦争)。1920年4月、アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下に結集して戦い、1922年9月、現在の領土を勝ち取った。1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。1924年、オスマン帝国のカリフをイスタンブールから追放し、西洋化による近代化を目指してトルコ共和国を建国(カリフ制廃止(英語版))。イスラム法(シャリーア)は国法としての地位を喪失。大陸法の影響を受けただけでなく、アメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。

第二次世界大戦では中立を維持したが、末期の1945年になり連合国の勝利が確定的になると、その圧力により2月23日ナチス・ドイツ大日本帝国に対して宣戦布告した。第二次世界大戦後は、ソ連に南接するため、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年には北大西洋条約機構(NATO)に、また1961年には経済協力開発機構(OECD)に加盟した。NATOとOECD加盟の間は西側陣営内で経済戦争が起こっていた(セカンダリー・バンキング)。1956年ごろ、ユーロバンクの資金調達先となったため外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量を急速に伸ばしたが、ソ連が既に1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するも、機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。

国父アタテュルク以来、イスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標である欧州連合(EU)への加盟にはクルド問題キプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。

トルコ側もEU加盟よりは、レジェップ・タイイップ・エルドアン政権下の2010年代から2020年代にかけて、国内での反対派弾圧やイスラム回帰(アヤソフィアモスク化など)、オスマン帝国旧領やその周辺に対するトルコの影響力拡大(新オスマン主義)を優先している。シリア内戦リビア内戦2020年ナゴルノ・カラバフ紛争に対しては派兵や傭兵の派遣、武器供与により介入している[17][18](「新オスマン主義」も参照)。

特にアルメニアとはナゴルノ・カラバフ紛争以外にも、アルメニア人虐殺への存否を含む見解の相違や、アララト山の領有権問題を抱え、緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派は東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。

2013年MIKTAに加盟した。
政治レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領詳細は「トルコの政治」および「トルコの司法制度」を参照

1982年に定められた憲法では、世俗主義が標榜されている。三権はほとんど完全に分立しており、憲法の目的(世俗主義ほか)を達成するためにそれぞれの役割を果たすことが期待されている。このことが、世俗派と宗教的保守派との対立を助長し、その対決が終息しない遠因ともなっている。

立法府として一院制トルコ大国民議会(Turkiye Buyuk Millet Meclisi、定数600名、任期5年)がある[7]。行政は議会によって選出される国家元首大統領(任期7年)が務めるが、首相の権限が強い議院内閣制に基づくものであった。


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