ロシア革命の後、次第にトルクメン人の民族的統一が進展していく[11]。ヒヴァ・ハン国の支配地域に属していたトルクメン人は都市部に居住するウズベク人と対立し、1916年にトルクメン人のジュナイド・ハンがヒヴァを占領する事件が起きるが、ジュナイド・ハンの軍はロシア軍によってヒヴァから追放される[19]。1918年に再びジュナイド・ハンはヒヴァに入城して独裁を敷くが、ソビエト政権とヒヴァ北部で反乱を起こしたトルクメン人の攻撃を受けてカラクム砂漠に逃走し、ヒヴァ・ハン国は消滅する[20]。ソビエト政権が1924年に行った民族境界画定によってトルクメン・ソビエト社会主義共和国が成立し、これまで複数の国に分かれて居住していたトルクメン人は民族単位で構成される単一の国家にまとめられた[9]。社会主義国家建設の過程で、トルクメン語の表記法の改良、教育制度の改革が試みられた[13]。
1991年にソビエト連邦が解体した後、トルクメン・ソビエト社会主義共和国はトルクメニスタンとして独立し、大統領サパルムラト・ニヤゾフによる独裁政治が敷かれた。ニヤゾフ政権ではプロテスタントの宣教師の弾圧、西洋芸術の否定、トルクメン人の民族衣装の強制といった民族主義的な政策が推進されていた[14]。2006年12月にニヤゾフが没した後、後継者に指名されたグルバングル・ベルディムハメドフはニヤゾフ体制からの脱却、現代化を進めている。 トルクメン人はオグズ語群に含まれるトルクメン語を話す。トルクメン語は言語的には中央アジアの他のテュルク系言語よりもオスマン語やアゼルバイジャン語に近く、部族ごとに方言的な差異がある[11]。トルクメン人は口承文芸の伝統を持ち、『ゴルクトゥ・アタ』『ギョログル』『ユスフとアフマド』などの叙事詩を生み出した。ドゥタールという撥弦楽器を奏でる詩人はバグシュと呼ばれ、その一人である18世紀の詩人マグトゥム・グルは偉人として敬意を払われている[12]。 トルクメン人の間ではスンナ派のイスラム教が信仰されているが、シャリーア(イスラーム法)は厳格に遵守されておらず、アダット(慣習法)が守られている[11]。土着の信仰と合わさったスーフィズム(神秘主義思想)の影響力も強く、有力なシャイフの一族は聖氏族(オヴラト)として特権的な地位を得ていた[15]。 トルクメン人は木にフェルトを張ったユルトを住居とし、定住生活を送るようになった後もユルトは夏季の住居として使用されている[21]。ユルトが並ぶトルクメン人の集落はアウル(Aul)と呼ばれ、姻戚関係で結ばれている大家族の集団で構成されている[22]。 トルクメン人は本来遊牧民だったが、17世紀半ばから半遊牧生活に移行してオアシス地域に居住するようになり、灌漑による農耕、牧畜、手工業などで生計を立てていた[11]。一つの集落に牧畜民(チャルワ)と定住農耕民(チョムル)が共存し、西部地域にはヒツジ、ラクダ、馬を飼う半遊牧民が多く住んでいた[10]。バルカン(バルハン)山脈
習俗
初期のトルクメン人は部族民が選出した名目上の代表者(ハン)を置いていたが、やがて世襲制の君主が部族集団を率いるようになった[25]。1880年代までのトルクメン人社会には純血(イグ)、奴隷(グル)、女奴隷(ギルナク)、自由人と女奴隷の子(ヤルィム)からなる身分制度が存在し、グルの子孫は7代後にイグとなることを認められていた[10]。かつてトルクメン人がイランなどで行っていた家畜・財産・住民の略奪行為はアラマンと呼ばれ、トルクメン人のイラン化の進展に大きな役割を果たしたと考えられている[10]。