それぞれの部族、その下位集団は互いに争っていたが、共通の敵が現れた時には団結して抵抗した[13]。
社会主義国時代のトルクメニスタンにも部族集団の伝統は残り、部族単位に分かれて権力闘争が展開された[9]。特定の部族に権力が集中しないよう、異なる部族の出身者が交代して第一書記の地位に就いていた[14]。コルホーズは部族組織に基づいて割り当てられ、行政区画は部族連合時代の勢力範囲と重なっていた[9]。1985年にサパルムラト・ニヤゾフが第一書記に就任した際には、彼の出身部族であるテケ部族の人間は34年ぶりに自分たちの代表が指導者となったと受け止めていたと言われている[14]。 トルクメン人はテュルク系民族よりも前に中央アジアに居住していた土着の民族との混血によって形成されたと考えられている[11]。10世紀以降、イスラーム世界の歴史書ではテュルク系民族のオグズの別称としてトゥルクマーンという名称が使われるようになるが、トルクメン人とトゥルクマーンの直接的な関係は明確にされていない[9][13]。オグズ起源説のほか、マッサゲタイ、エフタル、サルマタイ、アランなどのステップ地帯の遊牧民とマルギアナ
歴史
トルクメン人の民族形成は14世紀から15世紀にかけての時期に終了[10]、あるいは15世紀以後に始まった[15]と考えられている。15世紀から16世紀にかけての時期にはすでにトルクメン人はカスピ海東岸に居住しており[12]、16世紀初頭のマンギスタウ半島には多数の部族が混在していた[16]。
17世紀から19世紀にかけて、トルクメン人はカスピ海沿岸部からコペトダグ山麓やアム川下流域のホラズム地方に移住し、半農半牧の生活を営むようになる[13]。カラクム砂漠の水位の低下による牧畜用水の不足やマンギト、カルルク、カザフなどのモンゴル系民族の圧迫が、トルクメン人の移住を引き起こしたと考えられている[13]。コペトダグではイラン系の定住民、ホラズムではウズベクやサルトと衝突し、次第にトルクメン人はオアシスでの居住地を確保していく>[13]。また、オアシスへの移住の過程でトルクメン文学の伝統が形成され、詩人マグトゥム・グルなどの文人が現れる[13]。しかし、オアシス地帯への移動に伴って部族間の抗争が激化し、それぞれの部族の力は衰退していった[10]。
多数の部族に分かれたトルクメン人はブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、イランへの服従と離反を繰り返していた。17世紀から18世紀にかけてのウズベク国家とイランの史料には、トルクメン人のヨムド部族とテケ部族の抗争についての記録が残されている[11]。また、トルクメン人はイラン人・ロシア人奴隷の捕獲を行っていたことでも知られている[9]。1832年にガージャール朝イランは略奪行為への報復としてサラフスのサリル部族を、1845年にはテケ部族を攻撃し、テケ部族はサリル部族が放棄して無人となったサラフスに移住した[17]。当初テケ部族はホラーサーンの知事と良好な関係を築き、イランでの略奪行為を控えていたが、ヒヴァ・ハン国のサラフス攻撃を撃退した勢いに乗じてイランに侵入し、略奪を行った[18]。