トルクメン人の男女はバラクと呼ばれるズボンとクイネクと呼ばれるシャツを伝統的な衣服として着用している。生後間もない頃から死ぬまで着用する縁無しの帽子はタヒヤと呼ばれ、男性は外出時にテルペクと呼ばれる羊毛の帽子をタヒヤの上に被る[26]。また、かつてはターバンも着用されていた[26]。伝統的な衣服は主に年配者が着用し、若い女性は民族衣装を部分的に取り入れ、若い男性は洋服を着用している[27]。
男性の場合、外出の際にシャツの上からチャパン(チャパンス)と呼ばれるマントを羽織る[28]。チャパンは色、素材、模様によって名前が変わり、ドン、チェクメン、イチメク、ポストゥンなどの名前でも呼ばれている。バラクを締める帯はグシャクと呼ばれ、かつては花嫁が花婿のために作ったグシャクを贈る習慣があった[26]。短剣は男性の民族衣装の一部と見なされており、セイウチの骨で作られた柄と部族独自の文様が掘られた鞘からなり、イランの都市の工房で作られたものが多い[29]。トルクメン人の男性用の靴は底が柔らかい長靴のメシ、メシの上から履くカヴシという靴の二種類がある。ほか、爪先がとがった革靴のチョカイ、牧夫用のエルケン、チェペク、踵の高い乗馬用のエジクなどの靴がある[26]。
トルクメン人の女性も男性と同様にズボンを着用するが、裾口を狭くしてサソリやヘビが服の中に入り込むことを防いでいる[26]。女性は結婚と同時に頭を頭布や帽子で覆い隠し、髪を2-4本のお下げに編んで頭の両側に垂らすようになる[30]。外出時はチャブイトと呼ばれる上着や被衣をまとって頭と体を覆い隠し、被衣にはテケ部族のチルプイ、ヨムート部族のプーレンジェクなどの衣服が知られている[31]。細やかな刺繍が施されたチルプイの制作には手間がかかり、ロシア革命、それに続く工業化によって家庭の女性の社会進出が進展すると、袖に腕を通して着るクルテと呼ばれる簡素な被衣が使われるようになる[32]。女性の間では赤色が好まれているが、テケ部族の女性は赤地にくすんだ黄の縞模様が入った布地を使い、またヨムート部族の女性は紫色や暗緑色を好んでいる[30]。
トルクメン人の間では装身具が高い価値を持ち、20世紀に入っても貨幣は装身具に加工しない限り無価値なものと見なされる状態が長く続いていた[22]。また、女性の頭部を強調する装身具や子供の衣服に付けられる装身具には、災いをもたらす邪視をそらす役割があると信じられている[33]。富裕層の若い女性は多くの装身具を身に付けているために身動きが取りにくく、花嫁が身に付ける装身具の総重量は17kgに達していたと記されている[24]。1890年代にトルクメン人女性を診察したロシアの軍医たちは脊柱変形が多く見られることを報告し、こうした症状は装身具の重量と数に起因すると判断している[24]。装身具の処分の決定権は女性にあり、家族が困窮したときには装身具を売り払う代わりに、経済状況が好転したときには売却した装身具の代わりとなるものを最初に要求することができた[24]。
食文化「トルクメニスタン料理」も参照
羊乳は栄養源として重宝され、そのまま飲むほかにチーズに加工して保存される[34]。祝宴や高い地位にあった男性の葬儀の場などでは、野菜やパンと一緒に羊やラクダの肉が食べられていた[34]。
羊肉は家畜の肉付きが最もいい9-10月頃に屠殺した雄羊が食用にされることが多く、ひも状に切った肉を羊脂で焼いて食べる[34]。冷えると膜を張る羊脂は保存料としても利用され、羊脂を塗った肉は冬期の保存食にされる[34]。 トルクメン人にはハプログループQ (Y染色体)が高頻度に見られる。Grugni et al. (2012) では42.6% (29/68)[35]、Di Cristofaro et al. (2013) では33.8% (25/74)[36]、Karafet et al. (2018) では50.0% (22/44) (Q-M25のみ)[37]観察される。 ミトコンドリアDNAハプログループからは、モンゴロイドとコーカソイドの混血であることが示されているほか、トルクメン人と南部シベリア人のみで見つかっている多型をもつ2つの特異的なmtDNAマーカーがみられる[38]。
遺伝子
イランのトルキャマーンイランのアーシューラーデ島
ロシアの南下に伴ってアトレク川(英語版、ロシア語版)にイランとの国境線が敷かれた後、トルクメン人は国境線によって分断された。