民族の名前である「トルクメン」の語源は判明しておらず、「トルク」はテュルク(Turk)を指すと考えられているが、「メン」の意味は明らかになっていない[11]。「トルコ人、私」を意味する「トゥルク・メン(Turk-men)」、「トルコ人らしい」を意味する「トゥルク・マネンド(Truk-manend)」、「トルコ人・コマン人」を意味する「トゥルク・コマン(Turk-koman)」などが語源に挙げられている[11]。 トルクメン人の民族学者ジキエフは、テュルク・モンゴル系民族から形成されたカザフ、ウズベクなどの他の中央アジアのテュルク系民族の部族名がモンゴル、古代テュルクの伝統を色濃く残しているのに対し、テュルクと先住者との混血によって形成されたトルクメンなどの民族の部族名にはオグズの部族名が多く含まれていることを指摘している[10]。トルクメン人の下位集団はティーレ、タイーパと呼ばれ、一例として以下の部族集団が挙げられる[12]。
部族集団
テケ(テッケ) - アシガバート、メルヴなどトルクメニスタン南部
エルサル(エルサリ、アルサリ) - ケルキ、サヤト
ヨムート(ヨムト、ヨムド) - ベレケト(カザンジュク)
それぞれの部族、その下位集団は互いに争っていたが、共通の敵が現れた時には団結して抵抗した[13]。
社会主義国時代のトルクメニスタンにも部族集団の伝統は残り、部族単位に分かれて権力闘争が展開された[9]。特定の部族に権力が集中しないよう、異なる部族の出身者が交代して第一書記の地位に就いていた[14]。コルホーズは部族組織に基づいて割り当てられ、行政区画は部族連合時代の勢力範囲と重なっていた[9]。1985年にサパルムラト・ニヤゾフが第一書記に就任した際には、彼の出身部族であるテケ部族の人間は34年ぶりに自分たちの代表が指導者となったと受け止めていたと言われている[14]。 トルクメン人はテュルク系民族よりも前に中央アジアに居住していた土着の民族との混血によって形成されたと考えられている[11]。10世紀以降、イスラーム世界の歴史書ではテュルク系民族のオグズの別称としてトゥルクマーンという名称が使われるようになるが、トルクメン人とトゥルクマーンの直接的な関係は明確にされていない[9][13]。オグズ起源説のほか、マッサゲタイ、エフタル、サルマタイ、アランなどのステップ地帯の遊牧民とマルギアナ
歴史
トルクメン人の民族形成は14世紀から15世紀にかけての時期に終了[10]、あるいは15世紀以後に始まった[15]と考えられている。15世紀から16世紀にかけての時期にはすでにトルクメン人はカスピ海東岸に居住しており[12]、16世紀初頭のマンギスタウ半島には多数の部族が混在していた[16]。
17世紀から19世紀にかけて、トルクメン人はカスピ海沿岸部からコペトダグ山麓やアム川下流域のホラズム地方に移住し、半農半牧の生活を営むようになる[13]。カラクム砂漠の水位の低下による牧畜用水の不足やマンギト、カルルク、カザフなどのモンゴル系民族の圧迫が、トルクメン人の移住を引き起こしたと考えられている[13]。コペトダグではイラン系の定住民、ホラズムではウズベクやサルトと衝突し、次第にトルクメン人はオアシスでの居住地を確保していく>[13]。また、オアシスへの移住の過程でトルクメン文学の伝統が形成され、詩人マグトゥム・グルなどの文人が現れる[13]。しかし、オアシス地帯への移動に伴って部族間の抗争が激化し、それぞれの部族の力は衰退していった[10]。