トルクメン人
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トルクメン人の起源には不明な点が多い[9][13]

トルクメン人はテュルク系民族よりも前に中央アジアに居住していた土着の民族との混血によって形成されたと考えられている[11]10世紀以降、イスラーム世界の歴史書ではテュルク系民族のオグズの別称としてトゥルクマーンという名称が使われるようになるが、トルクメン人とトゥルクマーンの直接的な関係は明確にされていない[9][13]。オグズ起源説のほか、マッサゲタイエフタルサルマタイアランなどのステップ地帯の遊牧民とマルギアナ(英語版)、パルティアホラズムなどの定住民との混血によって民族が形成された説も唱えられている[10]

トルクメン人の民族形成は14世紀から15世紀にかけての時期に終了[10]、あるいは15世紀以後に始まった[15]と考えられている。15世紀から16世紀にかけての時期にはすでにトルクメン人はカスピ海東岸に居住しており[12]、16世紀初頭のマンギスタウ半島には多数の部族が混在していた[16]

17世紀から19世紀にかけて、トルクメン人はカスピ海沿岸部からコペトダグ山麓アム川下流域のホラズム地方に移住し、半農半牧の生活を営むようになる[13]カラクム砂漠の水位の低下による牧畜用水の不足やマンギトカルルクカザフなどのモンゴル系民族の圧迫が、トルクメン人の移住を引き起こしたと考えられている[13]。コペトダグではイラン系の定住民、ホラズムではウズベクやサルトと衝突し、次第にトルクメン人はオアシスでの居住地を確保していく>[13]。また、オアシスへの移住の過程でトルクメン文学の伝統が形成され、詩人マグトゥム・グルなどの文人が現れる[13]。しかし、オアシス地帯への移動に伴って部族間の抗争が激化し、それぞれの部族の力は衰退していった[10]

多数の部族に分かれたトルクメン人はブハラ・ハン国ヒヴァ・ハン国、イランへの服従と離反を繰り返していた。17世紀から18世紀にかけてのウズベク国家とイランの史料には、トルクメン人のヨムド部族とテケ部族の抗争についての記録が残されている[11]。また、トルクメン人はイラン人・ロシア人奴隷の捕獲を行っていたことでも知られている[9]1832年ガージャール朝イランは略奪行為への報復としてサラフスのサリル部族を、1845年にはテケ部族を攻撃し、テケ部族はサリル部族が放棄して無人となったサラフスに移住した[17]。当初テケ部族はホラーサーンの知事と良好な関係を築き、イランでの略奪行為を控えていたが、ヒヴァ・ハン国のサラフス攻撃を撃退した勢いに乗じてイランに侵入し、略奪を行った[18]。イランの反撃を受けたテケ部族はサラフスから追われてメルヴに移り、この地に住んでいたサリク部族を追放して勢力を確立する[18]

19世紀半ばからトルクメン人は中央アジアに進出するロシア帝国に圧迫されていく。1869年にロシアがカスピ海東岸にクラスノヴォーツク要塞を建設するとトルクメン人とロシアの対立は激化する[12]1880年から1881年ギョクデペの戦いを経て、大部分のトルクメン人がロシアが設置したトルキスタン総督府の管轄下に入った。ロシア帝国は支配下に置いていた中央アジアの現地民を徴兵の対象としていなかったがトルクメン人の勇猛さを認め、1885年にトルクメン騎馬連隊を創設した[13]

ロシア革命の後、次第にトルクメン人の民族的統一が進展していく[11]。ヒヴァ・ハン国の支配地域に属していたトルクメン人は都市部に居住するウズベク人と対立し、1916年にトルクメン人のジュナイド・ハンヒヴァを占領する事件が起きるが、ジュナイド・ハンの軍はロシア軍によってヒヴァから追放される[19]1918年に再びジュナイド・ハンはヒヴァに入城して独裁を敷くが、ソビエト政権とヒヴァ北部で反乱を起こしたトルクメン人の攻撃を受けてカラクム砂漠に逃走し、ヒヴァ・ハン国は消滅する[20]。ソビエト政権が1924年に行った民族境界画定によってトルクメン・ソビエト社会主義共和国が成立し、これまで複数の国に分かれて居住していたトルクメン人は民族単位で構成される単一の国家にまとめられた[9]。社会主義国家建設の過程で、トルクメン語の表記法の改良、教育制度の改革が試みられた[13]

1991年ソビエト連邦が解体した後、トルクメン・ソビエト社会主義共和国はトルクメニスタンとして独立し、大統領サパルムラト・ニヤゾフによる独裁政治が敷かれた。ニヤゾフ政権ではプロテスタントの宣教師の弾圧、西洋芸術の否定、トルクメン人の民族衣装の強制といった民族主義的な政策が推進されていた[14]2006年12月にニヤゾフが没した後、後継者に指名されたグルバングル・ベルディムハメドフはニヤゾフ体制からの脱却、現代化を進めている。
習俗

トルクメン人はオグズ語群に含まれるトルクメン語を話す。トルクメン語は言語的には中央アジアの他のテュルク系言語よりもオスマン語アゼルバイジャン語に近く、部族ごとに方言的な差異がある[11]。トルクメン人は口承文芸の伝統を持ち、『ゴルクトゥ・アタ』『ギョログル』『ユスフとアフマド』などの叙事詩を生み出した。ドゥタールという撥弦楽器を奏でる詩人はバグシュと呼ばれ、その一人である18世紀の詩人マグトゥム・グルは偉人として敬意を払われている[12]

トルクメン人の間ではスンナ派イスラム教が信仰されているが、シャリーア(イスラーム法)は厳格に遵守されておらず、アダット(慣習法)が守られている[11]。土着の信仰と合わさったスーフィズム(神秘主義思想)の影響力も強く、有力なシャイフの一族は聖氏族(オヴラト)として特権的な地位を得ていた[15]

トルクメン人は木にフェルトを張ったユルトを住居とし、定住生活を送るようになった後もユルトは夏季の住居として使用されている[21]。ユルトが並ぶトルクメン人の集落はアウル(Aul)と呼ばれ、姻戚関係で結ばれている大家族の集団で構成されている[22]

トルクメン人は本来遊牧民だったが、17世紀半ばから半遊牧生活に移行してオアシス地域に居住するようになり、灌漑による農耕、牧畜、手工業などで生計を立てていた[11]


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