トリーア選帝侯
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^ 皇帝のパレードで王笏を掲げる[1]。
^ 皇帝が臨席する祝宴では、ボヘミア王(献酌侍従長)が皇帝へ最初の盃を渡す[1]。
^ 基本的にはトリーア大司教が自動的にトリーア選帝侯となるが、教皇の承認と皇帝の承認のタイミングによっては在任期間にずれが生じることもある。たとえば16世紀前半のトリーア大司教リシャートは、1512年4月にトリーア大司教に就任したが、選帝侯位が承認されたのは8月になってからだった
^ ドイツにおける聖職者の序列ではマインツ大司教が1位である。皇帝選挙ではマインツ大司教は投票の進行役であり、投票順は7名の最後である。すなわち、投票が3対3だった場合にはマインツ大司教が皇帝を決定することになる[2]。
^ ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)がバイエルン公(バイエルン選帝侯)位を相続したことによる。
出典^ a b c d e f 『ドイツ三〇〇諸侯 一千年の興亡』p26-29「聖界諸侯」
^ a b c d 『ドイツ史1』p315-316「選挙侯と選挙手続き」
^ 『ドイツ三〇〇諸侯 一千年の興亡』p23-25「大空位時代と金印勅書」
^ a b 『ドイツ史1』p312-315「選挙侯と国制」
^ a b 『ドイツ三〇〇諸侯 一千年の興亡』p92-96「バイエルン王国」
^ a b 『ドイツ三〇〇諸侯 一千年の興亡』p104-106「ツェーリング家 肩書病」
^ 『ドイツ国制史』,p201-210「旧帝国の聖界諸国家」
^ 『ドイツ三〇〇諸侯 一千年の興亡』p35-37「ルクセンブルク家 ハインリヒ7世の外交センス 転がり込んだ皇帝位 ボヘミア王位をめぐる争い」
^ 『ドイツ三〇〇諸侯 一千年の興亡』p210-213「ヘッセン家 騎士戦争」
参考文献
世界歴史大系『ドイツ史1 先史-1648年』,成瀬治・山田欣吾・木村靖二/編,山川出版社,1997年,ISBN 463446120X
『ドイツ国制史』,フリッツ・ハルトゥング/著,成瀬治・坂井栄八郎/訳,岩波書店,1980年
『ドイツ三〇〇諸侯 一千年の興亡』,菊池良生,河出書房新社,2017,ISBN 978-4-309-22702-3
関連項目
騎士戦争 - 1522年にトリーア選帝侯が攻撃されて始まった戦争。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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