トリスタンダクーニャ
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行政上はイギリスの海外領土セントヘレナ・アセンションおよびトリスタンダクーニャに属する1区域である。行政区域としてのトリスタンダクーニャは、トリスタンダクーニャ諸島のほかにゴフ島を含んでいる。本項では本島の記述を中心に、属島の概要についても言及する。
地理
トリスタンダクーニャ島

トリスタンダクーニャ島は、南緯37度、西経12度に位置する。アフリカ大陸ケープタウンからは2805km、南アメリカ大陸リオデジャネイロからは3353km離れた、大西洋のただ中である。人が定住する最も近い陸地は、北に2429km離れたセントヘレナ[4]であるとされる。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また、上空約400kmを飛行する国際宇宙ステーションが最も近い人が居住する場所になる場合がある。[要出典]トリスタンダクーニャ島の衛星写真

「世界一孤立した有人島」には別の解釈もあり、イースター島を挙げる説もある。イースター島から最も近い有人島(ピトケアン島)までの距離は約2000kmで、トリスタンダクーニャよりは近くに「隣村」があることになるが、トリスタンダクーニャの近隣にはイナクセシブル島ナイチンゲール島のような無人島があるのに対し、イースター島は400km以上にわたって島がないからである。

北端から南端まで約12kmの島の中央には、楯状火山であるクィーン・メアリー・ピーク (2062m) がそびえ、冬季には降雪する。島の北西部・ホッテントット岬 (Hottentot Point) 周辺を除き、周囲は高さ300m?600m の険しい断崖絶壁である[5]。ホッテントット岬周辺に約5km2ほどの平地があり、島で唯一の集落エディンバラ・オブ・ザ・セブン・シーズがある。
トリスタンダクーニャ諸島

行政区域としてのトリスタンダクーニャには、以下の島々が含まれている。詳細は各項目を参照。

トリスタンダクーニャ群島 (Tristan da Cunha Island Group)[6][7]

トリスタンダクーニャ島 (98km2)

イナクセシブル島 (14km2)

ナイチンゲール諸島 (2km2)

ナイチンゲール島 (1.80km2)

ミドル島 (0.10km2)

ストルテンホフ島 (0.10km2)



ゴフ島 (65km2)

イナクセシブル島とナイチンゲール諸島は、それぞれトリスタンダクーニャ本島の35km南西にある。ゴフ島(別名ディエゴ・アルバレス島)のみが大きく離れており、395km南南西にある。

トリスタンダクーニャ本島以外は無人島である。ゴフ島では1956年以来、南アフリカによって気象観測所が運用されており、6名のスタッフが常駐しているが、定住人口としては数えられていない。

トリスタンダクーニャ諸島は大西洋中央海嶺上に位置しており、トリスタン・ホットスポットの活動によって形成されたと考えられている[8]
気候気温と降水量「エディンバラ・オブ・ザ・セブン・シーズ#気候」も参照

海洋性気候で、昼夜・夏冬の温度変化は大きくはない。エディンバラの平均年降水量は1675mm[9]
歴史ヨーロッパとインド洋を喜望峰回りで結ぶ航路において、トリスタンダクーニャは途中の補給地として利用された。図は、19世紀のクリッパー(快速帆船)の航路である。
発見

1506年に、ポルトガルの探検家トリスタン・ダ・クーニャによって発見された。ただし、海が荒れていたために彼は島に上陸することはなかった。島の名称は、この探検家にちなんだものである。

1643年、オランダ東インド会社の船 Heemstede の乗組員によっておこなわれたのが、島への最初の上陸の記録である。喜望峰回りでヨーロッパとインド洋を往復する船や、大西洋を横断しようとする船によって、この島は補給地・避難港として利用された。17世紀後半には、セントヘレナから派遣されたイギリス東インド会社の船が、島への定住の可能性を報告しているが、実行には移されなかった。

島の本格的な調査は、1767年フランス王国フリゲート L’Heure du Berger によって行われたものが最初である。大まかな海岸線の測量が行われるとともに、Big Watron の大滝や北海岸にある湖の存在が確認された。調査結果はイギリス海軍の水路部によって1781年に公刊された。18世紀後半には、イギリス人商人が一時的に島に居住しているが、定住には至らなかった。
定住.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ジョナサン・ランバートは「リフレッシュ諸島」の領有を宣言し、旗を制定した。

最初の定住の試みは、アメリカマサチューセッツ州セーラム市出身の船員ジョナサン・ランバート (Jonathan Lambert) によって行われた。1810年12月、数人の部下とともに上陸したランバートは、1811年にトリスタンダクーニャ諸島をリフレッシュ諸島  (Islands of Refreshment)  と名付けて領有を宣言し、付近を航行する船舶に水や野菜や麦や肉、ゾウアザラシの油などを供給して対価を得た。しかし、ランバートは1812年3月17日にボート事故によって死亡した。この年、米英戦争が勃発し、島は両国の艦船によって基地として利用された。1815年3月23日には、アメリカ海軍のブリッグ「ホーネット」 (USS Hornet (1805 brig))  とイギリス海軍の大型スループ「ペンギン」 (HMS Penguin) が、島付近で交戦している。

1816年に、イギリスはこの島を正式に併合し、ケープ植民地の管理下に置いた。これは、前年セントヘレナ配流されたナポレオンを奪回するための基地としてフランスがトリスタンダクーニャを使用することを防ぐためであり、島にはイギリス陸軍の部隊が進駐した。この部隊は翌1817年には撤退するが、伍長のウィリアム・グラス(1787年?1853年)が軍を除隊し、家族とともに島に残り、島の長となった[10]。島に寄港・漂着した船員の中には島に残留する者もあり、人口も次第に増え、多いときで100人前後が暮らした。

1867年、ヴィクトリア女王の次男であるエディンバラ公アルフレッドが、世界周航の途中この島に立ち寄った。この島唯一の集落であるエディンバラ・オブ・ザ・セブン・シーズ(略称エディンバラ)の名は、この訪問を記念して命名された。
孤立と接触人口の推移 (1821?1923)


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