トリエステ
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トリエステにおけるイタリアの気候分類 (it) および度日は、zona E, 2102 GGである[6]。また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 3 (sismicita bassa) に分類される[7]
歴史詳細は「トリエステの歴史(イタリア語版)」および「Timeline of Trieste」を参照
古代・中世

現在のトリエステ地域には、紀元前3千年紀以後インド・ヨーロッパ語族であるカルニ人(en)が定住した。その後、イストリア人が定住し、彼らはヴェネティ人(en)がやってくる紀元前2千年紀までに主な文明を残した。

紀元前177年、トリエステは共和政ローマの支配下に入った。ユリウス・カエサル時代にトリエステは植民都市の地位を授けられ、その名をタルゲストゥム(Tergestum)と記録された(カエサルの著作『ガリア戦記』(紀元前51年))。西ローマ帝国滅亡後、トリエステは東ローマ帝国の軍事中心地のまま残った。

788年、伯爵位を持つ司教の宗主下で、フランク王国の一部となった。

1081年以降、市はアクイレイア大司教のゆるやかな支配下に入り、12世紀終盤より中世の自由コムーネとして発展した。

しかしその後2世紀にわたり、近郊の強国ヴェネツィア共和国との戦争が続いた。1369年から1372年にはヴェネツィアが事実上トリエステを支配した。
オーストリアによる統治
1382年からナポレオン戦争まで

ヴェネツィアの脅威に対抗できなかったトリエステの自治都市市民たちは、オーストリア公レオポルト3世に、トリエステを彼の封土に加えてくれるよう懇願した。1382年10月、停戦合意締結が、シシュカ村(?i?ka、ラテン語名apud Sisciam、現在はリュブリャナの一地区)の聖バルトロメウス教会で行われた。しかし市民らは、17世紀まで自治権の一定部分を保持した。

トリエステは重要な港湾と貿易のハブ地となった。神聖ローマ皇帝カール6世によってオーストリア領内における自由港とされ、1719年から1891年7月1日まで自由港のままであった。カール6世の後継マリア・テレジアの時代は、トリエステの繁栄時代の幕開けとなった。

トリエステは、ナポレオン戦争中の1797年、1805年、1809年、3度にわたってフランス帝国軍に占領された。1809年の占領時には、フランス帝政下のイリュリア州に併合され、その自治権を失った(1813年にオーストリアへ返還された)。そして自由港の地位も中断された。
19世紀から第一次世界大戦までトリエステ(1885年)

ナポレオン戦争に伴い、トリエステは「帝国自由都市」(Reichsunmittelbare Stadt Triest)の繁栄を続けた。そしてキュステンラント(沿海地方、Kustenland)と呼ばれるオーストリア帝国直轄領の首都となった。

主要なオーストリアの貿易港・造船中心地としての役割は、後の1836年に船舶会社エスターライヒャー・ロイト(Osterreichischer Lloyd、現在はイタリア・マリッティマ)が商業用路線の開設したことで強調された。ロイトはグランデ広場の角に本社を置いた。1913年からロイトは合計236,000トンの62船舶からなる船団を所有していた[8]

オーストリア=ハンガリー帝国海軍も、トリエステの造船施設を使用し、基地を置いた。帝国初の主要幹線鉄道、ウィーン=トリエステ間のオーストリア南部鉄道が1857年に完成し、貿易のための価値ある資産そして石炭の供給に利用された。1916年時点で、弩級戦艦を収容可能な造船ドックが2つあった[9]

20世紀初頭、トリエステはジェームズ・ジョイスイタロ・ズヴェーヴォ、イヴァン・カンカル(英語版)、ドラゴティン・ケッテ(英語版)、ウンベルト・サバといった芸術家たちがしばしば集まる、活発な国際都市となった。市はオーストリア領リヴィエラ(Osterreichische Riviera)の一部で、中央ヨーロッパに属していた。テルジェスティーノ(Tergestino)と呼ばれる特殊なフリウリ語が19世紀初頭まで話され、しだいにトリエステ方言ヴェネツィア方言のひとつ)とその他言語(イタリア語、ドイツ語、スロヴェニア語)が勝るようになった。トリエステ方言は人口の大部分が話し、ドイツ語はオーストリア官僚政治の言語、そしてスロヴェニア語は周辺の村落で用いられた。今日、いまだウィーン風の建築と、ウィーン風のコーヒー・ハウスがトリエステの街頭で優勢である。
イタリア王国による併合

トリエステはトレントと共に、歴史的にイタリア人が暮らしてきたとする全ての土地をイタリアへ併合するという、未回収のイタリア回復運動の中心地であった。第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は瓦解し、トリエステは1920年にヴェネツィア・ジュリア全体と一緒にイタリアへ併合された。

しかし、この併合によってトリエステの重要性が失われた。また、トリエステは国境の町となったが、新たな国境は後背地をトリエステから分断することになった。

当時人口の25%を占めていたスロヴェニア人は、ファシスト政権の台頭によって迫害を受けた。これが市内部の緊張時代を招き、1920年4月13日、その頂点に達した。イタリア愛国主義者集団が、トリエステ在住スロヴェニア人の文化センターとなっていたナロドニ・ドムへ放火・炎上させたのである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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